クリスマスと贈与の霊  土地の魂

中沢新一の『純粋な自然の贈与』を読みました。例によって難しくてよくわかりません(^_^;)ので、またまたとばし読みです。

しかし、この本、すごく新鮮な視点があり、特に日本捕鯨を贈与という不思議な概念で解いて見せたり、また、もともとあった伊勢神道が大和朝廷に乗っ取られてきた経緯とひずみなど、ついに文庫本は傍線があちこちにつきました。

で、なにが贈与なんだ〜、ということになりますが、そのつまり、贈り物と一緒に実は「贈与の霊」が一緒に動いているのだ、と。まるで、人の身体と「気」のようなモノですね。そう言うのです。

アメリカインディアンは贈り物は動いていなければならないモノで、贈与の霊が動き流れていくとき、世界は物質的に豊かで人々の心が生き生きとしてくる、と考える、そして贈与がモノを結びつけるエロスの力をもっているのだ、と。ふむふむ、贈り物は確かに人をつなげる。あり得る。

贈与はエロスで結びつけ、売買はロゴスで分離する。ブッダは惜しみない贈与の果てにブッダの人格を得た。贈与のことしか語らなかったというイエスもまた、存在とは惜しみなく愛を放出し続ける父なる神で、…とあり、さらに、ハイデッガーは、存在とは贈与するものである、と表現にたどり着いた…。

「贈与には霊がつきまとう」。この見方を伊勢神宮や日本捕鯨やマルクスやバルトークやバスケットボールなどに串刺しして見せます。そしてそのうちに、クリスマスとサンタも登場。

クリスマスの贈り物はその意味でものすごく霊的な営みと表現されています。つまり、夏に産まれたというイエスを冬の年末に産まれたことにまでして遂行したキリスト教の世界化の過程で、地域の冬祭りを教会の行事に吸い込んでいく際、ここでもこの贈与の霊が動いている、と。

太陽の光が弱くなる冬至の頃合いに、生者の世界には数多の死者の霊が訪れ、地上の生きる者たちはこころを込めてもてなし、贈り物を与えて喜んで帰ってもらうようにしました。ここはアイヌの人の言い伝えとそっくり同じようです。この際、子供と若者は目に見えない死者の領域と深い繋がりをもった存在として扱われ、それが子らへのプレゼントとして続いたと言います。

贈与の力によって、滞ってしまった宇宙のエネルギーをもう一度健やかな動きに戻す、そんな祈りが込めれて、それによって世界は元気を取り戻す…。なるほど、祭りは元気の底=冬至の直後、回復したての時にするわけです。

長くなってしまうのでもう止めますが、人にモノを送ることで自分と人がつながる、ということは日常的なこととして多くの人が体験してきたことですが、そこに(贈与の)霊がいて、その霊が動かないと世界が止まる、ということ。これは「お互い様」でもあるしモノをもらったら「お返し」をしないと居心地が悪い、というあの感覚、あれが霊の仕わざだった訳ですね。贈与の霊は気のようにめぐり、また、めぐるように動いてきた世界と歴史がある…。極々、簡単に言えばこうなるでしょうか(カンタンニシスギカ〜!

クリスマス前の、もうけた拾い読みだったようです。
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