日本という方法の発見  コミュニティ

外はシンシンと雪がつもり今10数センチになりました。

今、松岡正剛著『誰も知らない世界と日本のまちがい』を読み終えました。以前、Kさんが書評↓を書いておられたものです。

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要点はKさんが的確に記述されましたから、わたしは、混沌から飛び出すのにヒントになりそうな、正月らしい興味深かったセンテンスだけをちょっと紹介しましょう。

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…「(以上、のべてきたような)アメリカン・リスク・マネジメントの趨勢に対決できるのは、ひょっとすると、、このような日本人の「小さな変化」を見立てられる力なのではないか、…また天変地異をひょいひょいと自然哲学や俳諧にしてしまう才能が、新自由主義の金融工学にはむかえる力ともいえるんじゃないか…」

ある段階から次に移るときに、予想もしなかった創発が起きると前置きし、それはいわば日本の水田の苗代なんだ、と述べてから、

「特に苗代や植木鉢をいろいろなところにつくっておくこと、…にヒントがある、そこに「日本という方法」の発見もある…」

「われわれは、そこにいて、そこの不在者になってはいけない…」

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最後の1行は、正剛氏最後459pのメッセージなんですが、かなり強烈なメッセージだと思います。伏線として、近代社会は「代理の社会である」ということがあるようです。政治は政治家に、旅行は旅行代理店に、美味しい食事はシェフに、教育は学校に、ことごとく他者に任せる社会というわけです。

だからこそ育児や家族や身近なネットワークなど、ぎりぎりの接点から逃げずに、「今」にコミットせよ、とも受け取れます。わたしの関係で言えば、「森林は地球環境を守る」「CO2に欠かせない」などと言ってないで、五感で感じ取り、「リラックスする」「気持ちいい」「薪の暖は格別」などという具体に突き進んでいくべし、と取れます。

ここのところが実に希薄になってしまっているのは事実ではないでしょうか。本当はそうでなくて、つまり、眼前の「今」への対処にしっかりとした
大きな意味がある、と。

展開された世界史解読と世界観はHelvetia さんを連想させました。博覧強記についていくのは困難でしたが470pは混迷の日本を展望してみる上でかなり刺激的な視点にあふれていました。
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