心身脱落と無意識  林とこころ

渡辺利夫著「神経症の時代―わが内なる森田正馬」をいただき読みました。

精神療法の森田療法を開発した森田正馬についた書かれたものですが(新刊ではありません)、前半は倉田百三の神経症描写。赤裸々な、克明な描かれ方で、どこか漱石の「心」にも似たような感じもしました。

瞠目したのは、フランクルの紹介。以下引用。

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フロイトの精神分析学を批判して実存分析の先駆者となったのは、ナチスの強制収容所での体験を「夜と霧」(原題「強制収容所における一心理学者の体験」)として著したフランクルであった。フランクルは、フロイトの衝動的無意識に対して精神的無意識の存在に着目し、精神的無意識の重要な構成要素のひとつに「良心」を見出している。良心は、人間にとって本質的で直感的な機能であり、無意識にその根源をもつという。フランクルは、この良心を人間の外にある超越者からの「声」であるとし、人間の無意識の中に宗教性を見ている。フランクルの実存分析にもとづく精神療法は、人間の内部に意識されることなく潜在している宗教性の意識化を主目的とし、意識化された良心をもって症者の日常生活のなかに新たな価値を発見させようという試みである。

(中略)

フランクルのもとめているものは、精神的無意識の中に潜在している宗教性(良心)の意識化であり、この良心をもって態度価値をさとらせ、そうして苦悩のなかにあって生きる意味を症者に見出させようとしたのである。フランクルは、無意識の解釈においてフロイトとは大きく異なるものの、しかし神経症者を健常者に回帰させる最重要の療法上の手続きを無意識の意識化に求めているという点では、両者に変わりはない。
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これに対して正馬はどうか。過度に意識化された死への恐怖のとらわれを、心身の外から刺激に応じて流転すべく作られている人間精神の本然に立ち返らせ、恐怖をそのままにみとめて、これを意識的世界のかなたに消滅させ、忘却させ、無意識化させること、つまりは意識の無意識化が正馬の課題だった、とされます。

精神的無意識とは、瞑想のメソッドに近い世界でしょう。そして「人間の内部に意識されることなく潜在している宗教性の意識化を主目的とし、意識化された良心をもって症者の日常生活のなかに新たな価値を発見させようという試み」と言う部分は、今日の社会に最も無くなってしまったものでしょう。宗教とはいわずとも、超越したあるモノを上に置くこと=ある種の信仰、のようなものが、唐突ながら、これから出直す日本が一目置いておきたいことではないだろうか、という考えが浮かびます。

ほんと、いきなり唐突に思いました(^_^;) 昨日から読み始めた」吉本隆明の「老いの幸福論」では、老いへの不安への向き合い方を、仏教用語をまったく使わないで、己の心と体の観察だけで語っていますが、禅の「今、ここ」の気づきを語っているのと等しいものがあります。また、人生を色即是空と見る視点とも共通するものを感じました。

震災とは直接関係がない特集かも知れませんが、「文藝春秋5月号」ではあの、池上彰氏が「試練を乗り越える信仰入門」が特別企画としてアップされています。宗教ではなく信仰です。時代は、横のネットワークと共に、畏怖する対象の縦のつながりにも少し傾斜するのでしょうか。

現代の、わたしたち迷える市民の心の一面を深くえぐるテーマとして、頭に入れておきたいと思います。
雑木林&庭づくり研究室
http://homepage3.nifty.com/hayashi-kokoro/index.htm
NPO法人苫東環境コモンズ
http://homepage3.nifty.com/hayashi-kokoro/commons00.html
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