再び、冥想という羅針盤  林とこころ

先週末、札幌で行われた冥想教室に出ていました。講師はスリランカ
生まれのスマナサーラ長老。わたしは毎朝、アサーナと冥想に、あわせて
1時間を費やすのですが、時々、メソッドをブラシアップしてみる必要が
あるのです。知らず知らずマンネリのドツボにはまるから。

で、午前中は講話だったのですが、その講話終了後の質疑の時間は、かなり
切実な悩み相談が相次ぎ、いささか驚きました。

何者にかならねばならない、という強迫観念や、こんな自分ではダメだという
自己否定、不安、そして隣でしゃべる人の声や音が気になってしまう自分への
いらだちなど、自分ではとりあえずどうしようもできない壁みたいなものも
日常にはざらにあって、それらは身に覚えのある質問ばかり。中には
「すでに自分で答えを言っているじゃないですか」と長老に笑いながらつっこ
まれる質問もありました。うすうす、答えはわかっているのです。

第3者からみたら、考えすぎと思われることでも、しかし人はそういうことで
十分悩むものです。人間、一馬力のコトしかできないのだし、それはそれで
人生はいいのだ、そんなに気張らなくていい、ゆるく行こう、とは、なかなか
思えないものです。

長老はずばり、simpleにいこう、といっていました。

たしかにわたしもこの歳になって、もっとゆるく行こうよ、という気持ちが出て
きました。しかしそれはごく最近です。そのためにかなり穏やかな心境にたどり
着きつつありますが、ふり返ると、それもかつての葛藤あってこそ、と思います。
あの呻吟の年月も無駄ではなかったということです。「これでいいのだ」という
メッセージが聞こえなかっただけ、と言えます。

かなり長い間、朝の冥想を続けてくる間に、冥想は「考えすぎ」から身を離し、
羅針盤の役割をしてくれると確信するようになりました。これはおそらく、
わたしだけではなく、冥想の日々の実践者の多くは、これに気付かれていると
おもいます。「これでいいのだ」という内なる声を聞きつつ、ベストを尽くす…。

長老の午前中の講話と参加者の質疑を聞きながら、現代の生きにくい日々で、
自我との葛藤を真剣に悩むのは、どうも昔となんら変わっていないのではないか、
と思いをいたします。

むしろ、「こころ」部門の普通の会話や、儒教など処世の奥義を聞いたり語ったり
することはほぼ皆無になったから、生き方を師と仰げるような方に問いかけたい願望は
潜在的に多いのではないか。冥想は、そこのところを自らに問うてみる、そんな
羅針盤さがしにあたるのではないかと思います。「なあんだ、先生はここにいた!」
という発見につながればしめたものです。青い鳥を探しに旅になど出なくても
良かった…。冥想の意味探求はこれからますます注目されるのではないでしょうか。



雑木林&庭づくり研究室
http://homepage3.nifty.com/hayashi-kokoro/index.htm
NPO法人苫東環境コモンズ
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