寺田寅彦の科学随筆的テーマ「ミラクルな落ち枝」  北海道と自然

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もう大分前から、フィールドのフットパスなどで発見する落ち枝がミラクルでは
ないか、と書いてきて、それを見に来る人もいたり、いつか訪問するのを楽しみにしたり、
あるいは何か意味を見つけたいという人、そして当然ながら全く興味を示さない
人などがいます。わたしはこの4例示の3番目で、できれば、胆振のコナラの雑木林の
特徴的な出来事だと言えないかと考えてきました。

大学の物理など自然科学系の研究者にもこれを話題として提供して、簡単な見立てを
してもらいました。こんな風に固執してみたのは、よく山で時間を過ごす道内の人のなかに
ほとんどミラクル落ち枝の経験者がいなかったからでした。

ところが、今年の正月の年賀状で新しい展開が起きました。わたしが落ち枝のことを
ちょっと書いたのを読んだ山口県の先輩が、急に興味を示したのです。先輩は
北大の農学部の先輩で、かつ山に登っていた時代の上級生でもあり、大学に愛想をつかして
裏表8年を札幌で楽しんだあとは、さっさと郷里の山奥に戻って林業と農業で生計を
立てている方でした。

わたしは丁寧にことの次第を書き、大学の先生たちも、寺田寅彦に所見を聞きたいような
テーマだ、と各々専門的な立場で意見を述べられたことまで伝えました。先輩は、最初、
あまり気にもしていなかったのですが、2通目のはがきで、自らの推論を書き、3通目と4通目
あたりでは、自らの周辺で起きるもっとミラクルなものを、寺田寅彦よりももっと
ラジカルに、独特の推論も込めて言ってよこしました。

これはわたしだけが読むのはもったいない内容でした。そして今回は、改めて自分の山を
歩いてみたら、おびただしい数のミラクル落ち枝があることを写真と共に知らせて
よこしました。そして、当地山口の結論として、「物理的に深く考える必要はなく、要は
確率の問題だ」、としました。何せ、ヒノキ林であれば樹木1本の周辺ににひとつぐらい
あるのではないか、というのでした。日常的だと。

で、わたし的結論は、なぜ苫小牧のここで急に目に付いたように感じたか、
にまとめる必要がありますが、林の手入れを始めた後に、ミヤコザサを
ブッシュカッターで刈って幅1.5m程度の路をつけたからだと考えています。

きれいに刈られた腐植土の小径にブスリと落ち枝は刺さっているので大変目に
付きやすくなった、ということでしょう。整頓された路ではそれがちょっと
意味ありげに見えるときがある、ということかも知れません。

それなら、もっと落ち枝を見た、よく見るという人が現れても良さそうですが、なぜか。
これは、野外によくでかける人でもいかに見ていないか、ということでしょう。
鳥や花や風景に目を向けても、藪の中の自然の不思議にはあまり気づく目がない。
もうひとつ、都市林や完全な林道では、ここのように土壌凍結と融解を
繰り返す腐植土を含む表土の柔らかさが得られないことがあろうと思われます。

以上の事例から類推されるように、落ち枝は物理的確率的な問題だけであり
十分高頻度で起こる可能性があるという点はこれからアタマにいれてさらに
観察しようと思います。恐らく、落ちて刺さる現場にもそのうち出会える
だろうという予感があります。

現場はまだ雪があり、あと1週間で完全に溶けるかと思いますが、今月中には、
林道の枝拾いがてら、合計10km近いフィールドの林道やフットパスを
この落ち枝観察も念頭に入れて歩いてみる予定です。その際には、だれか
同行するものがいれば山口県の山間部の事例も紹介したいと思います。

このたびは、ひょんなことから落ち枝についていろいろ推論と事例をまとめて
考察することになりましたが、自然相手では、観察と考える目があれば自然の
不思議とその意味がむこうからやってくるという先輩の考え確かにそうだと思います
。観察眼だけならまだいいのですが、田舎、里の自然から離れてしまった
現代の多くの人は、人との合意や、自然災害の備えや緊張や、危険察知など、
多機能で具有していたヒトの感性を失っているのではないか、と危惧される
こともあります。これはちょっと取り返しの付かない一大事ではないか、そんな
誇大妄想を連想させるテーマでした。


追加寄稿

以上のような記事を書きましたら、読者の方からまったく課題の究明になっていない
のではないかというご指摘をいただきました。たしかに、正論、推論をはしょりすぎた
かもしれません。それで以下を追加しました。またもや暴論ですが(^_^;)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

先輩とわたしは長い手紙のやりとりで推論をしている間に、真理や正論を
こえて「降参」したような状態なのでした。そのため、読者Aさんが求める
課題とか問題の究明のような土俵からはずれたのです。

だってそう思いませんか。雪が解けた山口の山間部の限界集落で、持山に
分け入ると、5mか10m置きに落ち枝が見つかるのです。ヘクタール800本の
ヒノキ造林地なら、数百の落ち枝があるかもというのです。

もちろん、落ち方(回転か、飛び込み型か)、自重、斜度、土壌などで条件が
かわり、より刺さりやすいのはなにか、という確度は変動要因としてあります。
その項目はすでに議論が終わっていました。が、ここまでたくさん落ちれば、
そんなことはある程度もうどうでも良くて、数うちゃあたる、たくさん落ちれば
そのうち必ず刺さる、的なことになるのではないか。

それで正論の推論はもう十分されたとして極論にたどりついたのです。
「要は確率だ。少なくても山口のそこでは珍しいモノではない」。

また、わたしたちは瞬時の確率感覚をもっているのではないかというわたしの新しい
仮説。雪のなかに枝が刺さっていても、一顧だにしないのです。意味のない
ことを詮索しない、あたりまえと判断したことに拘泥しない、スルーするということです。

先輩が見捨ててきた現象がじつはこんなにあり(先輩はそんなの一杯あるんじゃないかな、と初めからいっていました。)、それをわたしは胆振で珍しがっている。北海道人も
ほとんどなじみがない。同じ様な見捨て方を、わたしは雪の中の落ち枝にするのです。

あ、また長くなってきました。先輩もわたしも山と林の滞在時間が長いから、語れば
長いのです。そんなわけで、「降参」以外ははしょったわけでした。

〜〜〜〜〜〜追加は以上〜〜〜〜〜〜


雑木林&庭づくり研究室
http://homepage3.nifty.com/hayashi-kokoro/index.htm
NPO法人苫東環境コモンズ
http://homepage3.nifty.com/hayashi-kokoro/commons00.html
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