林のなかのひとり  林とこころ

世はつながりの時代だという。しかし、時々、雑木林の小屋に来て思う、「ひとりがあってのことだ」。昨日は二カ月ぶりにひとりで小屋に泊まったので、林の中の「ひとり」について宗教学者山折哲雄氏の「ひとり」を援用して、常々思ってきたことを書いてみたい。

つながりが注目される背景はよくわかるが、ひとりの重みに比べれば、つながりは、ひとつの知恵のようなものではないか、軽く薄いと思うときがある。林に独りでくると、孤独ではない「ひとり」という時間がうまれる。いつの間にか、林に入るだけで計らいが消えるようになった。

それが朋輩や肉親とも離れた、きっと社会とも縁が切れたような無色透明な「ひとり」がいる。そこになんの計らいもないとはどういうことなのだろう。

山折哲雄は日本語の「ひとり」を、西洋の近代的自我よりはるかに古い、
日本の個の意識だという。今の日本は「個の自立」と叫ばれ、群れることを
否定され、自分の中に頼るべきものもない。危うく不安定にこころが揺れる…。
人生は揺れっぱなしだ。人々がなにかの拍子にうつ状態になるのも当然ではないかと言うのだ。

山折がいう、伝統的な日本の「ひとり」、まず万葉集の柿本人麻呂の作といわれる
「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」。そして
親鸞の歎異抄にある(阿弥陀の救済は)「ただ親鸞ひとりがためなりけり」。
それから、尾崎放哉の俳句「咳をしても一人」を例にあげる。何となくわかったような
かそけき香りはある。が、まだ判然とはしていない。 

古来、森林は罪びとの最後の逃げ場でもあった。避難所である。宴会・酒盛りというのも本来はノーサイドのアジールだったという。浮世の法から逃れたいとき
人は森林に入った。つながりを断ち切ったアジールである。

今、わたしが林に来るのは、森を作る目的をもったつながりの林としてでもあり、
もうひとつのもともとはアジールとしてでもあった。しがらみや法から逃れると
いうより、単純により率直で感性の高い自分に戻れることを知ったからだろうと思う。
それほど、山々や林とのつながりは長かった。きっとサイエンスとマインドが
半々だったのではないか。

山折は「ひとり」から始めない限り日本人の個の自立などは絵に書いた餅だという。独りでごす時間と空間は、じっくりとモノを考え、感受性を研ぎ澄ます宝だ、というのだ。わたしはそれほど深入りはしないけれど、林の中のイスに座って焚き火を前にすると、自然と計らいが消えるだけだ。そして何かと一体になっている感覚が時折ある。たまに人にもそんな話をしたり書いたりする。助けてあげたいと思うこともあるからだ。ただ、行きたくなる林は自分で探すか作るかしかない。わたしは実際作り始めた。すると、作ること自体が、アジールでもあった。手仕事はアタマの地獄からの避難所でもあることを知ったのである。


話は戻って、実際、早朝に冥想をしてみる。依然としてなにも計らいがなく、遠くから風がやってきて「ひとり」が風に融ける。鳥の声と一体になってわたしはいない。辛うじて右の股関節の痛みにわたしの気配が残るのみだ。

(写真は新緑の中のヨガマット)クリックすると元のサイズで表示します


雑木林&庭づくり研究室
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