
1985年1月、英国航空入社の同期です。日本人12人、英国人10人、インド人6人が
同じ時期にロンドンヒースロー空港近くの研修施設で約1ヶ月半、B747の乗務員になるための訓練を受けました。最終試験にパスしてウイング(小さな羽のブローチ)をもらったあとのパーティでのスナップ。
帽子にスカーフがいかにも一昔前のクルーという感じで懐かしいですね。今、制帽があるエアラインは少なくなってしまいました。BAもこの2年後には制服が変わり、普段の乗務では制帽は省略されました。ピンストライプのウールのスーツ、スカートは膝丈、ジャケットの裏地は赤のサテンでおしゃれでした。いかにも英国テーラー仕立て。
イギリス人は男性クルーの方が当時は多く、サービス業は基本的に男性が行うという雰囲気があり、さすがバトラー(執事)の国、と感じました。日本人女性クルー以外全員男性乗務員というフライトも度々ありました。インド人、香港人、日本人がそれぞれの国のフライトに乗務していました。
今思えば、時代の転換期に各国に行っていたことを感じます。南まわりアフリカ便、21日間の仕事というフライトもありました。まだアパルトヘイトのあった南アフリカのヨハネスブルグに次の便がくるまで7日間も滞在。黄色人種ながら経済力のある日本人はかの国では名誉白人という扱いでした。入国審査の窓口が違うのです。まだ後に大統領になる黒人のネルソン・マンデラは政治活動で獄中でした。彼を支持する署名を英国人同僚に機内で頼まれたことも多々ありました。
モスクワではペレストロイカが始まる境目でまだ検閲が厳しく、西側の書籍、新聞などは没収。KGBも現役ばりばりで、空港では写真などの撮影はご法度。一人で行動はしないように言われていました。各国のエアラインクルーは外国人用のホテルに集められ、なぜか1階のロビーにはいつもロシアの金髪のきれいなおねーさんがたむろしていました。
湾岸戦争が勃発し、BAの飛行機が着陸直後にクゥエートの空港が閉鎖され(狙いうち)飛行機ごと人質になってしまったことも。乗客は解放されても乗務員は3ヶ月ほど拘束され、ロンドンのクルーの事務所で開放を願う黄色のリボンを作りました。
日本航空が空前の赤字、という報道が今日もありましたが、各国の航空会社が国を代表して飛んでいた時代から、単なる交通機関へと変化していくその狭間で貴重な体験を12年間していたようです。まだデジカメのない時代、整理していない写真がたくさんありますが、備忘録かわりにエアラインや他国の話も少しずつupしていきます。いろいろな国の形が、訪問から20年後にしてしみじみわかるようになりました。イスラム圏の国にいくと日本がいかにアメリカしか見ていないかがよくわかります。

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