「高山の松倉城は金森長近が建てたのか?についての考察」
・飛騨高山の風景
いま、松倉城が暑い!!、 というので、うちのすぐちかくにあるこれ、
松倉山のてっぺんの松倉城という古跡なんですけど、
うちのライブカメラからもギリギリでその姿が見えるような見えないような、写真真ん中の上、手前に見える林の奥の山の頂上です。そんな高いところに築かれた城なんですが、これ、
天正時代、当時、そのド高い山の松倉城から飛騨を治めていた姉小路頼綱(三木頼綱)を、秀吉の命を受けた金森長近公が城を攻めて、情けないことに内通者が出てしまい三木氏は負けてしまいまして陥落、落城、
で、このうちのあたり、夜な夜な甲冑を着た血まみれの落ち武者が、ガシャーンガシャーンと音を立てながら歩いておられます(見える人には見えるらしい)。
で、松倉城というのは、われわれ飛騨の人間には、上述、三木氏が建てたのを金森氏が潰した、というふのが常識であったわけです。
金森長近というのはこういうひとなんですけどハゲ。
いわゆる京都に似せて高山の町を作り、いまでは古い町並みとかなんとかいうのを整備した大名さまです。
だが、科学の進歩とともに定説は覆されます、こんなイベントができていました。
そのパンフです。
で、その講演会のうたい文句なんですけど、
高山市にある松倉城について、地元の方は天正11年(1583)飛騨統一をした三木自綱が作ったとされていますが、最新の研究では、天正13年(1585)飛騨に侵攻した金森長近が作ったとされています。
全国の研究者により松倉城はどのような目的で造られた城であるか、研究発表がなされます。
入場料 1000円(資料代込み)
後援 新宮まちづくり協議会
ええええええ!!!!????
んなバカなー!!
いやいや、ヒデヨシに命令されてイヤイヤ飛騨に侵攻した金森長近が、わざわざあんなへんぴな、ものすごいド高い山の上に、どえらい苦労して石積み、わざわざ城を建てるわけが無いでしょう? 水も無いんですぜ旦那!
まあごくふつうに考えて、完全に無理筋です。
松倉城はその写真で解るとおりすばらしい石組みがしてあります。そしてそれは「安土城と同じ組み方である」、という説を採るかたも居られます。まずこの論には無理はありません。
なぜなら三木頼綱は信長と仲良しなんで、安土城を築いたのち、その城職人をお借りして松倉城を建てた。これはごく自然なことです。
ですが金森長近の置かれた状況はまったく違う。
金森長近は三木氏を滅ぼした後、高山城(古い町並みの上のほうですな)を築城しましたが、そのときの状況を考えたら、、、
関ヶ原には行かなあかんわ、秀吉の朝鮮出兵に附いて九州へは行かなあかんわ、
武田はちょっかい出してくるわ、一向宗は邪魔してくるわ、、もう、てんてこまいの大忙し、寝るヒマもないですよ奥さん!!
やっとこさ高山城を作るだけでもあっぷあっぷの精一杯、侵攻してから後に、のんきに山の上に、丁寧に石垣組んで城なんかつくるヒマもカネもあるわけが無いでしょが常識的に考えて。
ということで、松倉城は金森長近が作った説はオカルト決定です。
最近の戦国ブーム、城ブームで、こういうオカルト、多いんですよね。こまったことです。
まあマニヤと称する一般人のドシロウトさん相手にはダマシも効くんでしょうけど、ぼくみたいなまともな神経の人間には通じないのが難点です。
まあしかし、一見の価値はあるかも。興味あるひとは講演会に行ってみてください。1000円かかりますが。タダじゃないのか?これ。
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