「飛騨松倉城・佐伯哲也論文を考察する(松倉城の石垣について(その2))」
・そのほか雑記
このブログにおける、前回の考察、
「高山の松倉城は金森長近が建てたのか?についての考察」では、
高山市にある松倉城について、地元の方は天正11年(1583)飛騨統一をした三木自綱が作ったとされていますが、最新の研究では、天正13年(1585)飛騨に侵攻した金森長近が作ったとされています。
といふ新説に対して、直観的な考えを述べましたが、ではちゃんと学術的に考えてみよう!、ということです。
論争の元ネタは
これです。「飛騨学の会」・「斐太紀」
で、図書館でピーコしてきました。佐伯哲也氏論文。
なお、この場でお断りしておきますが、このブログを書いているわたくしは一介のタダの焼きもの屋さんであり、昔には信長の野望などのゲームやってたこともありますが、にほんのれきしやお城にはぜんぜん詳しくない、
ドシロウトさんが書いてることなので、
よい子のみなさんは信じないように!
、と、あらかじめ赤のでかい文字で書いておきまして、では佐伯哲也・松倉城の石垣は金森長近が築いた論文、
これは
高山市の公式サイトにもありますが、従来、
「永禄年間(一説天正7年)三木自綱が築城し、桜洞を冬城、松倉城を夏城と称した。」、
と言われていたものを、じつはそれを侵攻してのち飛騨を治めた金森長近が、作ったんですよ!、といふきわめて大胆かつ野心的な力作です。
では、えーと、学術論文ですのでそのまま引用はできませんが、三木自綱が築城したと主張する岩田修氏に対しての反駁、佐伯哲也氏は、初手、
三木氏築城であるという説を支持する一次文献が存在しない、二次資料しか無い。
とおっしゃっています。なるほど、たしかに一次資料無しで、あれこれ推測するのは良くないですね。
では佐伯哲也氏のほう、確固たる一次資料、または信頼できる二次資料などはあるのかしら?、読み進めて行きますと、、
最後までいっこも
出て来ねええええ。
なんんだよなあ?、それ。
確たる証拠も無しに、「考えられない」、「とは言えない」、「理解できない」、「なかろうか?」のオンパレード、
果ては読者に向けて、「広くわかっていただきたい」、、って言われましても。。。 困惑。
三木自綱築城説を採る岩田修氏は、この佐伯哲也氏論文に書いてあるとおり、「願生寺伝」や「飛州千光寺記」などの古い二次資料とその傍証から三木氏が築いた、という説を唱えています。
、が、一方、それに反駁するこの佐伯哲也氏論文には、自説であられる金森長近築城説に対する一次資料はおろか、二次資料さえも無い、文献がまったく存在しません。
そんな二次資料も持たない佐伯哲也氏が、なぜ二次資料を持つ岩田修氏をこれだけ一晩中くらいものイキオイで問い詰め続けることができるのか?
しろうとさんである私にはまったく理解できないんですけど、まあまだこの論文は前編、始まったばかりなんで、追々と考察していきますか。
⇒小糸焼ブログのトップへ