「国のために憂える 他」他1編
明治44年7月10日
1.国のために憂える 他
(1) 国のために憂える
私は我国に多くの知者があるのを見る。私は我国に多くの勇者があるのを見る。しかし私は、我国に多くの義人があるのを見ることができない。いやそれどころか、少数の義人さえあるのを見ることができない。
私が我国のために憂える理由はここにある。私は日々私の神に祈る、彼が我国に多くの義人を起して下さることを。
(2) 徳と義
徳は得である。利得を目的とする人の道である。義は義である。利益を眼中に置かない神の道である。徳は計算的である。義は確信的である。徳は政治家によって唱えられ、義はキリストによって伝えられる。
私達キリストの弟子である者は、幸福を計って徳を講じる必要はない。神の前に聖く成ろうと思って、ただひたすらに義を求めるべきである。
(3) 訴えるべき所
困難を役人に訴えても益はない。なぜなら、役人には役人自身の大きな困難があるからである。悲痛を社会に訴えても益はない。なぜなら社会には社会自身の大きな悲痛があるからである。
困難と悲痛とは、これを真(まこと)の神に訴えるべきである。彼にはこれ等を除き去ってなお余りある能力(ちから)がある。彼は与えて求めず、彼は咎めることなく、惜しまずにすべての人に与えて下さる。
役人と社会との他に、訴え出る所のない者は何と憐れなことか。その避け所、また力、悩んでいる時の最も近い助けとしてエホバの神を有(も)つ者は、何と幸いなことか。詩篇46篇1節。
(4) 進化の法則
次のように言われている。進化は生存競争にある。ゆえに援助を要せず、誘導を要せず、ただ競争によって人を進化させれば足りると。そのような理由で無慈悲な教育があり、残忍な商業がある。
一人が成功するためには千人は失敗し、一人が選抜されるためには万人は振り落とされる。喜ぶ者は少なくて、泣く者は多く、起つ者は少数で、倒れる者は多数である。
それにもかかわらず言う、これは天然の法則であって、進歩の原理であると。誠にこの世の霊はキリストの霊と相敵する。悪魔を「此世の主」と称するのは、何ら怪しむに足りない。ヨハネ伝12章31節。
(5) いわゆる信者ではない信者である
私は信者ではない。私は教会の会員ではない。私は洗礼を受けない。儀式に与らない。信仰箇条に署名しない。監督、長老、執事、牧師、伝道師などという、人が定めた教職の教権を認めない。私はその意味において信者ではない。不信者である。
しかし、私は信者である。私はナザレのイエスを、私の理想として仰ぐ。私は、彼の僕であろうと思う。私は彼を神として拝することに躊躇しない。私は彼のためということであれば、私のすべてを捨てることを惜しまない。
私は彼の聖名(みな)のためには、世の謗(そし)りを受けることを厭(いと)わない。私は、人としての最大名誉は、彼ナザレのイエスのために粉骨砕身して命を終ることであると信じる。その意味において、私は確かに信者である。私は自らイエスの弟子であると称して恥じない。
このようにして、私はいわゆるキリスト教会に対しては信者ではない。不信者である。しかし、キリストの敵であるこの世に対しては、信者である。
ゆえに宣教師、監督、長老、牧師、伝道師、その他教会信者全体に対しては、私は信者でないと言う。しかし、キリストを嘲り、彼の福音を斥けるこの世全体に対しては、私は信者である、イエスの弟子であると断言して憚らない。
(6) 信仰と愛
信仰は武器である。私は信仰によって暗黒を払い、圧制を挫き、束縛を断ち、自由を得て、光明に入ろうとする。愛は治平である。私は愛によって傷を癒し、恩恵を施し、平和を結び、自由を楽しみ、光明を増そうとする。
この罪の世に在って、信仰の武器を振るわずには、自由と平和とを獲得することはできない。それと同時に、愛のいつくしみを欠いては、戦って得た自由と平和とを享受することはできない。
信仰が愛に先立つのでなければ、愛は得られない。愛が信仰に続くのでなければ、信仰は無効となる。信仰と愛とは、相携えて進むべきである。
パウロに学んで束縛を絶ち、ヨハネに教えられて自由を楽しむ。私達は信仰の人であると同時に、また愛の人であるべきである。
「
平和の福音を鞋(くつ)として足に穿(は)き、信仰の盾を取りて悉く悪者(あしきもの)の火箭(ひや)を滅(け)すべし」。エペソ書6章15、16節
(7) 聴かれた祈求(ねがい)
私は多くの事を神に祈求(ねが)った。私はもちろん私の身の事を祈求った。私の骨肉の事を祈求った。私の友人の事を祈求った。私の国の事を祈求った。そして時には、自他の事を忘れて、キリストと彼の福音の事を祈求った。
そして多くの年の間、多くの事を祈求ったが、その中で、確かに神に聴かれたと信じるのは、ただ最後の祈求(ねがい)だけである。
私の身に幸福は来ずに、不幸は来た。私の家は栄えずに衰えた。私の骨肉は、多くは私を離れた。私の友人で今も私と共に在る者は甚だ少ない。私の国はますます神を離れて、その堕落は年と共に甚だしい。
ただキリストと彼の福音とは、月と共に挙がり、年と共に顕(あらわ)れつつある。私に幸福が来なかったのは、このためであった。私の家が栄えなかったのは、このためであった。
私の血縁と交友と社交とに失望が多かったのもまたこのためであった。即ちキリストと彼の福音とが、世に挙がるためであった。「
彼は栄ゆべし。我は衰ふべし」(ヨハネ伝3章30節)。
彼の聖名(みな)が私に由って挙がるためには、私は大いに苦しまざるを得ない。
福音盛栄の立場から見て、私の失望は成功であった。私の祈求(ねがい)が聴かれなかったのではない。いや、私の最大の祈求が聴かれたので、私のすべての祈求は聴かれたのである。
主の栄光は顕(あらわ)れつつある。私の欲求(ねがい)が斥けられたことにより、私の希望が満たされなかったことによって、暗黒が世にますます甚だしいことによって、福音の輝きは挙がりつつある。私は今に至り、私の祈求が
すべて悉く神に聴かれたことを感謝する。
2.ルカ伝によって伝えられた主の祈祷
聖書は二個の主の祈祷を私達に伝える。マタイ伝によるもの(6章9〜13節)と、ルカ伝によるもの(11章2〜4節)がこれである。二者は要目を共にするが、文に長短繁簡の別がある。
そして近世聖書学者の研究によれば、ルカ伝に由る者は簡素なので、始めてイエスの口から出たもののようだとの説が多い。マタイ伝に由るものは、イエスの原始の言葉に修飾を加えたものであって、礼拝用としては優美であるが、祈祷の精神を伝えるものとしては、反って前者に劣る所があるようである。
今、最も信憑すべき古代謄写本に由り、ルカ伝11章2節以下4節までを邦訳すれば、次の通りである。
イエス曰ひけるは、汝等祈る時は言ふべし
父よ、御名を聖(きよ)め給へ、
御国を臨(きた)らせ給へ、
我等の必要の糧(かて)を日毎に我等に与へ給へ、
我等の罪を赦し給へ、そは我等さへも亦
我等に負ふ所のすべての人を赦せばなり、
我等を誘惑に放任(まか)し給ふ勿(なか)れ。
略 注(ゴーデー氏注解に依る所が多い)
「祈る時は」 祈りたいと思う心が起きる時には。必ずしも時を定めて祈る必要はない。また職務に強いられて祈ってはならない。祈る必要を感じ、祈りたいと思う時は、下のように祈るべきである。
「斯(かく)の如くに」 マタイ伝にはこの文字がある。しかし、ルカ伝にはない。おそらくここも、この意味を加えて読むべきものであろう。即ち、この言葉を繰り返せとは言わない。これを模範として祈れと言う。私はあなたたちに祈祷の模範を示そう。その精神で祈りなさいという意味であろう。
「言ふべし」 これを言葉に言い表しなさい。あなた達は、心に祈ろうと思う時、その心は下の例に倣い、これを言葉に表しなさい。
「父よ」 「天地万物の造主なる真の神よ」と言う必要はない。また必ずしも「天に在(いま)す我等の父よ」と言う必要はない。「父よ」の一言で足りる。天地の造主である真(まこと)の神は、今はその愛子(いとしご)を介して、あなたたちの父として顕れられた。
彼はまた、人類の父であるだけでなく、またあなたたちの父である。万人の父であって、またあなた一人の父である。ゆえに彼と語るに際しては、単に「父よ」と言いなさい。彼をお呼びするに当って、彼に長い肩書を付けて、彼をあなたから遠ざからせてはならない。
「御名」 人が神に対してお付けする名である。あるいはエロヒムと言い、あるいはアドナイと言い、あるいはエルシャダイと言い、あるいはエホバと言い、あるいは神と言い、あるいは仏と言う。
名は思想の表彰である。人が神について思う通りに、人は彼をお呼びするのである。力者(ちからあるもの)と思う時に、エロヒムとお呼びし、恩恵者(めぐみあるもの)と思う時にエホバとお呼びするのである。
御名は神について人が懐く思想である。
「聖(きよ)め給へ」 私達があなたについて懐く思想を聖(きよ)めて下さい。私達が正当にあなたを解することができるようにして下さい。あなたが聖(きよ)くおられるように、私達があなたに関して懐く思想を聖(きよ)くして下さい。
私達があなたを卑(ひく)く解さないようにして下さい。異邦人があなたを解するように解させないで下さい。万軍の主とお呼びして、あなたを軍神または勢力の神と解させないで下さい。あるいは恩恵の神とお呼びして、あなたを福神または幸福を下される神と解させないで下さい。
私達があなたを、イエス・キリストの御父として解するようにして下さい。即ち、
純愛の神、犠牲の神としてあなたを私達に知らせて下さい。
我名は彼に在りとあなたは言われました(出エジプト記23章21節)。即ちあなたが何であるかは、彼イエスにおいて完全に顕れるということです。
私達は未だあなたを知りません。私達は、自分が思うようにあなたを解し易いのです。願わくは私達に在って、御名を聖(きよ)めて下さい。預言者イザヤが聖殿(みや)において聞いたように、「聖なる哉、聖なる哉、聖なる哉、万軍のエホバ」(イザヤ書6章)として私達があなたを知り、またあなたを呼ばせて下さい。
「御国」 神の国は神の政治である。そして神の政治は、人の政治と異なり、これに国土はない。法律はない。警察はない。兵力はない。
神の政治は、愛と義と聖霊によって、人の心の内に行われる。
もしその効果が外に顕れることがあれば、それは先ず、その能力(ちから)が内を聖(きよ)めたことに因るのである。人の政治は権威を以て、外から内に及ぼそうとし、神の政治はこれに反して、内から外に顕れようとする。
「臨(きた)らせ給へ」 「布き給へ」とは言わず、「臨らせ給へ」と言う。善政を抑圧的に施して下さいとは言わず、聖旨(みこころ)を自由的に行って下さいと言う。即ち、
聖霊を降して下さいと言うのと同じである。
神の国は降臨すべきものである。神の国は、先ずイエスの霊即ち聖霊として、人の心に臨むべきものである。甘露(かんろ)が牧場を潤すように、静かに霊魂に降るべきものである。
「御国を臨(きた)らせ給へ」、聖霊を降して下さい。そして私達の内に在る霊を化して、終に外に在る肉と社会とに及んで下さい。
議会において法律を改めて下さいと祈らず、警察によって風紀を正して下さいと祈らず、あるいは教会によってまたは文壇によって、声と筆とで社会を改良して下さいと祈らず、
神に相応しい方法で、彼が取られる唯一の方法で、即ち御子イエスの霊、即ち聖霊を私達の霊に降し、それによって義と愛との政(まつりごと)を天に行われるように、地にも行って下さいと祈る。
「我等の……我等に……我等を」 先ず神の事を祈りなさい。これが第一である。先ず神が真正(まこと)に人に知られる事を、また神の政治が、人の間に行われることを祈りなさい。そしてその後に、人の事を祈りなさい。
しかし、
「我が」事を祈らず、
「我等」の事を祈りなさい。人類全体のために祈りなさい。神を愛する者すべてのために祈りなさい。「我の、我に、我を」と言うべきではない。「我等の、我等に、我等を」と言うべきです。
即ち、異邦人ならびに偶像信者が祈るように祈ってはなりません。彼等は、自己のために祈って、他人のために祈りません。人のために祈って、神のために祈りません。
しかし、あなたたちはそのようにしてはなりません。あなたたちは先ず第一に神のために祈りなさい。次に人のために祈りなさい。しかも自己のために祈らずに、同志同類のために祈りなさい。あなたたち私の弟子である者は、そのようにすべきである。
「糧」 受造物である人に糧が必要である。肉体の糧の必要があり、霊魂の糧の必要がある。彼は糧なしでは、一日も存在できない。ゆえに私達が糧のために祈るのは善い。いや実に、そのために祈らざるを得ない。
私達は、楽しむために生きることを欲しない。仕えるために養われることを祈求(ねが)う。神がその政(まつりごと)を行うに当って、私達を使役して下さるように、私達は糧を得て、健やかになることを願う。
「必要の糧」 糧のために祈りなさい。しかし、余分な糧のために祈ってはならない。糧は必要な分があれば足りる。人が全体に富を要求するのは、彼が必要以上の糧を要求するからである。
しかし私達大なる父に信頼する者は、必要以上の糧を得る必要はない。そして神は必ずしも人に富をお与えにはならないが、彼に依り頼む者に、必ず必要な糧をお与え下さるのである。
「日毎に我等に与へ給へ」 必要な糧を与えて下さい。しかし、一年の糧、または十年の糧を与えて下さいとは祈らない。
日毎にこれを与えて下さいと祈るのである。今日は今日、明日は明日と、神が空の鳥や野の獣を養われるように、私達を養って下さいと祈るのである。
そしてそのように祈って、私達は心に寡欲(かよく)であろうと思うのである。祈祷の目的は、客観的でまた主観的である。私達は最少額を祈って、これを神から得ると同時に、また彼によって私達の欲心を減殺(げんさい)されるのである。
私達に必要な糧を日毎に私達にお与えくださいと祈って、私達の肉体を養われると同時に、また私達の霊魂を潔(きよ)められるのである。
「我等の罪を赦し給へ」 肉体が生きることを祈って、次に霊魂が活きることを求める。罪の価(あたい)は死である。罪を除かれなければ霊魂は活きない。そして罪を除かれたいと思えば、神にこれを赦されるという一途があるだけである。
ゆえに言う、私達の罪を赦してくださいと。そして神には、私達が犯したすべての罪を赦すことができる恩寵がある。私達は、単に父の仁慈に訴えるだけである。私達に罪を赦される権利は一つもない。私達はひとえに父の寛容を乞うて言うだけである。「父よお赦し下さい」と。
「そは我等さへも亦、我等に負ふ所のすべての人を赦せばなり」 父は私達の罪を赦して下さるであろう。なぜなら私達は罪に生れ、悪に育った人間であるが、私達に物を負う者がいれば、それを赦す憐みの心を有っているからである。
主は言われた、「
汝等悪しき者なるに、善き物を其子等に与ふるを知る、況(ま)して天に在す汝等の父に於てをや」(ルカ伝11章13節)と。
私達罪に沈んでいる人間にさえ、人を赦す心がある。まして光の中に居られて、罪を知らない聖父であるあなたはなおさらである。私達の内に憐みの心を植えられたあなたが、どうして私達の祈願に応じて、私達の罪を赦して下さらないであろうか。
「我等を誘惑に放任し給ふ勿れ」 私達の罪を赦して下さい。そして私達が再び罪に陥らないようにして下さい。私達は知っています、あなたは人を悪に誘われないことを(ヤコブ書1章13節)。
私達を誘う者は悪魔です。そして私達が悪魔に誘われないようにするためには、私達はあなたの保護を常時要します。あなたが一たびあなたの守護の聖手(みて)を放されるなら、私達は直ちに悪魔に捕らえられ、誘われて、あなたに逆らって罪を犯すようになってしまいます。
それだから祈求(ねが)います、私達が故意に罪を犯して、あなたに聖顔(みかお)を私達からそむけさせるに至らないことを。また、私達が高ぶって、自己に頼り、私達の不信時代におけるように、あなたが私達を、私達の心の欲のほしいままにするのに任せて、穢れに渡すことがないことを(ロマ書1章24節)。
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ルカ伝によって伝えられた主の祈祷を約言すれば、次の通りである。
一、神のためにする祈祷
イ、神の聖旨(みこころ)が、真正に人に知られることを祈る。
ロ、そうして聖旨(みこころ)が実際的に人の間に行われるようになることを祈る。
二、人のために祈る、
イ、必要で欠かせない肉体の糧(かて)が与えられることを祈る。
ロ、罪を赦されて、死んだ霊魂が活きることを祈る。
ハ、神の聖手(みて)を離れて再び罪を犯すようにならないことを祈る。
祈祷の要目は、わずかに五箇条である。それで人が神に祈るべきことを言い尽くして余りがある。私達は、この祈祷に則って、祈らなければならない。そしてそのような祈祷が、必ず神に聞き入れられることは、言うまでもなく明らかである。
父よ、御名を聖(きよ)め給へ、
御国を臨(きた)らせ給へ、
必要の糧を日毎に我等に与へ給へ、
神人共通の御憐愍を以て我等の罪を赦し給へ
而(しか)して我等を護り給ひて我等を悪魔の誘惑に放任し給ふ勿れ、アーメン。
完