全集第19巻P48〜
俗人の宗教観 他
明治45年3月10日
1.俗人の宗教観
始めに宗教は不用だと言い、次に宗教を利用すべきだと言い、終りにキリスト教を採用すべきだと言う。俗人の宗教観は、常にそのようである。古今東西変ることはない。私達は彼等と、何も干与する所があってはならない。
2.福音の代価
キリストの福音に世を感化する絶大の力があると言う。誠にその通りである。そして、その理由を知ることは、難しくない。神はそのために、絶大な代価を払われたからである。彼は、そのお生みになった独子(ひとりご)を、犠牲に供されたからである。
犠牲があれば、感化がある。犠牲がなければ、感化はない。感化の大小は、犠牲の有無、多寡によって決せられるのである。
私達が唱える福音もまた同じである。私達も高い代価を払って、私達の福音を伝えざるを得ない。福音は、神学校で学ぶことはできない。これを神学書から得ることはできない。苦しんで、高い犠牲を払って、これを自分のものとすることができるのである。
パウロは言う、「
死は我等に働き、生は汝等に働くなり」(コリント後書4章12節)と。私達が死の苦痛を嘗(な)めなければ、生は他人に及ばないのである。伝道とは、何と辛いことか。伝道とは、何と貴いことか。
3.悲歎
死は歎くべきである。しかし、死に勝る悲歎がある。信仰の堕落がそれである。死には復活の希望がある。しかし、堕落には再興の希望が少ない。
エレミヤは言う、
死者のために泣く勿(なか)れ
之がために嗟(なげ)く勿れ
とらはれて往く者のために甚(いた)く嗟(なげ)くべし
そは彼は再び帰りて、其故園(ふるさと)を見ざるべければなり
(エレミヤ記22章10節)
と。
その通りである。死者のために泣くな。彼のために歎くな。誘惑者(いざなうもの)に捕らわれて、神とキリストから離れ往く者のために甚く歎け。なぜなら彼等は再び帰って、主による愛と誠実(まこと)との故郷を見ないであろうから。
4.信仰は個人的関係
ある人達は言う、キリスト教は私の信仰であるから、彼等は私に盲従することを好まないので、これを捨てると。
またある人達は言う、キリスト教は教会が編纂(へんさん)した教義であるから、彼等は理性に逆らい、これを迷信的に信じることを好まないのでこれを去るのであると。
しかし、キリスト教は私の信仰ではない。また教会が作った教義でもない。
キリスト教はキリストである。キリスト教を信じるということは、私に盲従することでないのはもちろんのこと、この宇宙観、またはかの人生観を採用することではない。
キリスト教を信じるとは、ナザレのイエスを信じることである。彼を主として、彼に仕えることである。彼を人類の模範として仰ぎ、彼と深い霊的関係に入ることである。
私は「私に従え」と言って、人に迫らない。私はまた、ある特殊な教義をもたらして、これを人に強いない。私はただ、人をイエスに導こうとする。これを伝道と称するから、多くの誤解が起るのである。
伝道ではない。人物紹介である。キリストと称されたナザレのイエスの紹介である。私はこの事に従事するのである。人を駆り立てて私の弟子としようとしない。また彼等を私の教会に引き入れようとしない。
「あなたはイエスを信じるか」とは、私が誰にでも問いたいと思うことである。そしてイエスを信じる者が信者であって、彼を信じない者が不信者である。
人の信仰如何は、イエスと彼との個人的関係によって決まるのである。
そしてイエスを信じるとは、密かに彼を信じることではない。
信は忠信である。一人密かに心の中に信じて、これを口に言い表せないのは不忠である。
イエスを信じる者は、イエスの名を恥としない者である。イエスのために人に嫌われ、世に憎まれることを、反って喜びとする者である。
ニコデモのように、夜陰に乗じてイエスを訪れ、密かにその説に敬服し、ある程度まで彼に従おうと思う者などは、イエスの忠実な弟子ではない。
「
凡(およ)そ人の前に我を識らずと言はん者を、我も亦天に在(いま)す我父の前に、之を識らずと言ふべし」(マタイ伝10章33節)と、イエスは言われた。
5.人生の詩
我に告ぐる勿れ、悲しき調子を以て、
人生は単(ただ)に空しき夢なりと、
そは霊魂(たましい)は寝(ねぶ)りて死せず
万物眼に見ゆるが如くにあらざればなり。
人生は真実(まこと)なり人生は真面目(まじめ)なり
而して墓は其終局にあらざるなり
汝は塵(ちり)なるが故に塵に帰るべしとは
霊魂に就て言はれしにあらざるなり。
(ロングフェローより訳す)
完