全集第19巻P52〜
「死の慰藉」他1編
明治45年3月10日
1.死の慰藉
(テサロニケ前書第4章)
第13節
我等汝等の知らざるを好まず、兄弟よ、寝れる者に就て。是れ汝等が
憂愁(なげ)かざらんがためなり、希望を有(も)たざる他の人々の如くに。
◎「我等」、パウロとシルワノとテモテ。この書を送った人々、キリスト信者を代表して言う。
◎「汝等」、この書を受け取った人々。テサロニケにおけるキリスト信者。
◎「知らざるを好まず」、この重要な事を知らないでいることを好まない。(ロマ書11章25節参照)。復活再来は、キリスト信者にとって重要事項である。これを除き去れば、健全な信仰はない。
◎「兄弟」、主イエスに在って希望を共にする人々であり、「他の人」と相対して言う。
◎「寝れる者」、死んだ者、信者にとっては、死は寝床である。ヤイロの死んだ少女について、イエスは言われた、「
少女は死にたるに非ず寝ねたる耳(のみ)」(ルカ伝8章52節)と。また死んだラザロについて言われた、「
我等の友ラザロは寝ねたり」(ヨハネ伝11章11節)と。
生きている霊と成ることができた信者にとっては、死は休息である。英語で墓地を cemetery と言うが、それは
寝室という意味である。信者は死んで墓の中に寝て、ここで元気を回復し、再び起きて新たな生命に入るのである。
◎「汝等が憂愁(なげ)かざらんがためなり」、死が何であるかについて知るのは、あなたたちが不信者(他の人々)のように歎かないようになるためである。歎くことは悪くはない。これは人の自然の情だからである。しかし、希望のない者のように歎くことは、信者が為してはならないことである。
憂愁(なげき)には、聖なるものと聖ではないものとがある。信者もまた不信者のように死を歎くのである。しかし、絶望的には歎かないのである。
パウロは人情に背いて「あなたたちは死を憂愁(なげ)くな」とは言わなかった。歎きなさい。泣きなさい。しかし、復活再会の希望がある者のように歎きなさいと言うのである。
◎「他の人々」、第12節における「外人(そとのひと)」と言うのと同じである。信者の立場から見て、信仰上の他人である。エペソ書2章12節にいう「希望なく又世に在りて神なき者」であり、いわゆる不信者である。
彼等は常に私達の信仰を嘲り、私達を迫害することを喜楽(よろこび)とするが、一朝死に遭遇すれば、自己を慰める途のない者である。「他人」だと称して、私達は彼等を疎遠にしない。私達は彼等を愛し、彼等に私達の希望を伝えようとする。
しかし私達は、彼等と同じように、死に遭遇して希望のない憂愁に沈むことを好まない。私達は、自ら信者だと称して高ぶろうとは思わない。しかし私達は、死に遭遇して、信者の懐く希望を以て、私達の希望としたいと思う。私達は死後の希望の有無を以て、自他の教会としたいと思う。
第14節
そは我等若しイエスの死して又甦(よみが)へりし事を信ずるならば、其
如く又神、既に寝れる者をイエスを以て彼と共に携へ来り給へばなり。
◎「そは」、私達信者は、希望を有していない不信者のように歎いてはならない。その理由は何かと言うならば、
◎「イエスの死して又甦りし事」、これは初代信者の最も重要な信仰箇条であった。この事を信じなければ、人はキリスト者(クリスチャン)として認められなかったのである。
「
汝、若し口にて主イエスを認(いいあら)はし、心にて神の彼を死より甦らしゝことを信ぜば救はるべし」(ロマ書10章9節)と使徒パウロは言った。使徒とは、特にイエスの復活の証明者であったのである(使徒行伝1章22節)。
初代においては、今日のように、イエスの復活を否定するキリスト信者なる者はいなかった。
ゆえに「我等若しイエスの死して又甦(よみが)へりし事を信ずるならば」と言うのは、「私達がもしキリスト者ならば」と言うのに等しかったのである。パウロはここに、キリスト信者通有の信仰に訴えて、死の慰藉を供しつつあるのである。
◎「其如く」、神がイエスを甦らせられたように、
◎「神……イエスを以て」、眠った者は、甦らされるであろう。しかし、独り自ら甦るのではない。
神がイエスを以て彼等を甦らせられるのである。復活は神の聖業(みわざ)である。自然の動作(はたらき)ではない。神の奇跡である。神がイエスを以て、信者の上に行われる奇跡である。
◎「彼と共に携へ来り給へばなり」、眠った者を甦らせ、イエスと共に彼等を携えて来られる。イエスが再び来られる時、彼に在って眠った者を、彼と共に連れて来られる。
イエスは、「
死の中より首(はじめ)に生れし者なり」(コロサイ書1章18節)。彼はまた、「
多くの兄弟の中に嫡子(ちゃくし)たる者なり」(ロマ書8章29節)。
信者は、イエスのような者である。そして実に、イエスの兄弟である。ゆえに彼と死を共にし、また生を共にする者である。「
我れ生くれば汝等も生きん」(ヨハネ伝14章19節)と彼は言われた。
イエスと利害を共にし、哀楽を共にし、生死を共にする信者は、終に彼(イエス)のように甦らされ、また彼と共に来るであろうということである。
◎信者の復活、再顕の希望はイエスに在る。イエスと運命を共にする信者は、イエスのように苦しめられ、またイエスのように崇められる。またイエスのように死んで、イエスのように甦らされる。この希望があるので、信者は不信者のように死者について歎かないのである。
第15節
我等主の言(ことば)を以て汝等に此事を告げん。即ち、我等生きて主の臨
(きた)るまで存(なが)らふ者は、既に寝れる者に先(さきだ)たじ。
◎「主の言(ことば)を以て」、死後の事に関しては、人の言葉で語っても無益である。人は実験的にもまた推理的にも死後の状態について知ることはできない。
生命の主キリストだけが、未来について知っておられる。私達は今、この事について、私達の言葉を語らない。主が私達に示して下さった事をあなた達に伝えると。
◎「我等生きて云々」、主は再びこの地に来られる。その時この世は、化してキリストの国となり、地上に天国を見るに至るであろう。そしてその時その栄光に与る者は、その時生存する信者に止まらず、
すべての信者は、その栄光に与るであろう。
天国の民は地上の人と異なり、最終の者が最善なのではない。彼等は、進化の最終の結果として彼等だけが地上の天国を継承するのではない。
私達生きて主が来られるまで生存する者だけが入って天国の民となるのではない。いや、私達が先に入って、既に眠った者が後から入って来るのではない。天国入国の順序は、地上逝去(せいきょ)の順序に従うと。
第16節
主御自身、号令を以て、天使の長(おさ)の声を以て、神のラッパを以て、
天より降り給はん。而して主に在りて死(しに)し者、先づ甦らん。
◎「主御自身」、その最後の時に当って、主はその聖業(みしごと)をその僕にお委ねにならず、自ら天の聖座を離れ、神の子としての権威を以て、天上から降られるであろう。
◎「号令」、その時には勧誘はなく号令がある。寛容はなく、権能がある。なぜなら、宥恕(ゆうじょ)の時期は既に過ぎて、審判の時が来たからである。
◎「天使の長(おさ)の声」、天使の長が発するような声、宇宙に響き、天地を動かすような声、ベツレヘムの客舎の槽(うまぶね)で発せられたような呱々(ここ)の声ではない。多くの水の音のような、大きな雷(いかづち)の声のような声である。
◎「神のラッパ」、ラッパは、号令を伝えるための器具である。「神のラッパ」とは、「神の川」と言うように、人の間にその類を見ることができないラッパを言う。
主は号令と共に、その号令の声は天使の長の声のように、これを伝えるのに絶大無比のラッパを以て、自ら天より降られるということである。
◎「主に在りて死し者甦らん」、この時、権能の異常な表顕がある。天地は改造されて、死者は復活するであろう。そして復活の力は先ず、キリストに在って死んだ者に加えられ、先ず彼等が甦るのを見るであろう。
第17節
而して後に生きて存(ながら)ふ我等は、彼等と共に雲に囲まれ空中に於て
主に遇(あ)ふべし。斯(か)くて我等いつまでも主と共に居らん。
死者が先ず甦り、その後に生者化せられ、二者共に雲に囲まれ空中において主に遇うであろうと。
「雲」は水蒸気の凝結(ぎょうけつ)したものではないであろう。「空」は空気ではないであろう。地の事を以て天の事を語るに当って、比喩(ひゆ)転義(てんぎ)は免れられない。
変貌山上に「
輝ける雲彼等を蔽(おお)ひたり」(マタイ伝17章5節)と言い、またイエス昇天の時に、「
雲彼を受けて見えざらしめたり」(使徒行伝1章9節)とある。
雲は「輝きの雲」であって、聖徒を囲む微光であろう。「空」は天と地との中間で、二者の接触点であろう。
イエスが甦った死者を携えて天から降って来られる一方、生者が化せられて地から昇って来る。そして二者は天と地との間で相会して、ここに希望の再会は成就し、その後、再び死別はなく、先だった者も後れた者も、いつまでも主と共に居るであろうということである。
第18節
是故に汝等此等の言(ことば)を以て互に相慰むべし。
主キリストのこの言葉があるのだから、あなたたちは死に遭遇する時、この言葉によって、互に相慰めなさい。信者の希望というものは、単なる空漠(くうばく)とした未来の希望ではない。確固とした事実の期待である。
主キリストは、明らかにこの事をお示しになった。私達信者は、彼の言葉を信じ、自分が死ぬ時も、また死者を送る時も、この言葉で相互を慰めるべきである。
2.重々の不幸
内村生は言う。初冬以来かさねがさねの不幸が、私達同志の間に臨んだ。11月30日に高橋ツサ子が眠り、12月28日に石川一子が逝き、越えて1月12日に我がルツ子が彼等の跡を追って去った。
ツサ子は27歳、イチ子は21歳、ルツ子は19歳であった。地上の花が一時に散り失せて、寂寞の情耐え難いものがあった。私の苦痛は実に大きかった。私は一時に三人の子を失ったのである。
しかし、私は失って却(かえ)って得たのである。私は奪われて却って富まされたのである。私は今や、天上に援助者を有する。彼等三人が心を合せて私のために祈る時、誰が私に抗し得ようか。
私は今や、この世と来るべき世の両界にわたって、我が子と我が弟子とを有する。そして弟子は、今や拙(つたな)い私に教えられずに、却って私を教え、私を導く。三聖女は、今や私を守る天使である。願わくは、私自身が彼等の聖(きよ)い群に加わるまで、父の恩恵が豊かに彼等と共にあることを。
完