全集第19巻P67〜
喪中所感 他
明治45年3月10日
1.喪中所感
私は、伝道をしているのではない。神が私を用いて伝道を為されつつあるのである。私の言葉を以てではない。私の行為を以て、そして実に、私の生涯を以て、私自身が支配することのできない私の生涯を以て、神はその聖(きよ)い福音を世に伝えつつあるのである。
私の歓喜(よろこび)を以て、歓喜よりも
より多く苦痛(くるしみ)を以て、彼はその愛を人に示されつつあるのである。彼は私を通して、世に実物的教育を施されつつあるのである。何と禍なことか私は。讃美すべきかな、神は。多分神に選ばれた者とは、私のような者を言うのであろう。
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自(みず)から懲罰(こらしめ)を受けて我等に平安(やすき)を与ふ。その撃
たれし痍(きず)によりて我等は癒されたり。 (イザヤ書53章5節)
斯(か)くて死は我等に働き生(いのち)は汝等に働くなり。 (コリント後書4章12節)
このようにして、旧約も新約も犠牲である。他者に代って苦しむことである。キリスト教はこれである。実に「感謝感謝」である。
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そしてもしそうであるならば、私達は呟(つぶや)かない。私達は一人だけでなく、全家族(みんな)が犠牲となって、神の祭壇の上に献げられたい。この不信者国に生れて来て、福音の恩恵に与った以上は、私達がそのために苦難(くるしみ)を受けさせられるのは当然である。私達の願いはまた、パウロのそれである。
我等弱くせられて汝等強くせらるゝ時に、我等は喜ぶなり。我等の祈願
(ねが)ふ所は、汝等の完全にならんことなり。(コリント後書13章9節)
2.死 因
あるいは体質が弱かったからであると言い、あるいは父母の注意が足りなかったからであると言い、あるいは医師の選択を誤ったからであると言い、あるいは本人が不摂生(ふせっせい)をしたからであると言う。
死因は、これを以上の四者又はその他にも探る事ができる。しかしながら、死は、それだけでは説明することができない。
最大の死因は、神の命である。神が生命を要求されたので死んだのである。
一羽の雀も神の許しなしには地に落ちることのないこの世界に在って、神の命によらずには一人の人が死ぬはずはない。かつてリビングストンが言ったように、「人はその仕事が終るまでは不滅である」。そして彼が死んだのは、彼のこの地における仕事が終った証拠である。
そうは言っても、私達は、もちろん摂生(せっせい)・治療を怠らない。そのわけは、私達人間には、事実として現れるまでは、神の命が明らかに分からないからである。
しかしながら、死が事実となった以上は、神の命を信じて疑わないのである。殊に祈祷を以て神の命を待った場合においては、死は確かに聖召(めし)である。神は肉体の死を最も善い事と見做されたので、これを要求されたのである。
ここに本当の「諦(あきら)め」がある。死因をそのように覚ってのみ、死は悲しくなくなるのである。
3.最大幸福
最も幸いなことは、神から善い物をいただくことではない。神に善い物を献げることである。与えるのは受けるよりも幸いであるという言葉は、神に対しても真理である。私達は、私達の所有物(もちもの)すべてだけでなく、私達の生命までを献げて、最も幸いなのである。
神が私達に与えて下さる最大の恩恵は、私達が自己を彼に献げまつろうと思う、その心である。私達に自分のものというものが一つも無くなるに至って、私達は最大幸福に達するのである。
完