全集第19巻P70〜
「二つの神」 他1編
明治45年4月10日
神は一つではない。二つである。天然の神がある。黙示の神がある。二者は同じ神であって、また別の神である。
天然の神は残酷な神である。無慈悲な神である。優勝劣敗の神である。競争の神である。戦争の神である。教会の神である。不義と権力とに与(くみ)して、正義と貧弱とを圧する神である。
これに反して、黙示の神は恩恵の神である。慈愛の神である。イエス・キリストの御父である。退譲の神である。平和の神である。平民の神である。平信徒の神である。常に義者と貧者とを助けて、最後の勝利を彼等に与えて下さる神である。
どのようにして二者の調和を計るべきか。人生最大の問題は、これである。神は果して二つであるか。イエス・キリストの御父は、果して万物の造主(つくりぬし)であって、その統治者であるか。私達は、その事について切に知りたいと思う。
そしてこの事を明らかに示されたのが救主イエス・キリストである。彼が救主であるゆえんは、彼がその身を通して、人生のこの謎を解かれたからである。
眼に見える天然の神は、真の神ではない。天然は、神の顔である。そして、その心ではないのである。神は偉人である。その容貌は醜い。しかしその心は、その容貌とは正反対に優しいのである。
神を解するのは、偉人を解するように難しい。その心と顔とが正反対だからである。
そして、その醜い顔の中に、そのうるわしい心を認める、これを信仰と称するのである。
ゆえに言う、「
そは我等見る所に憑(よ)らず信仰に憑りて歩めば也」(コリント後書5章7節)と。また「
そは見ゆる所のものは暫時(しばらく)にして、見えざる所の者は永遠(かぎりな)ければ也」(同上4章18節)と。
天然の神を真(まこと)の神と思う、それが迷信である。人生のすべての誤謬と、これに伴うすべての不幸とは、この迷信から来るのである。そして見える天然を排して、見えない真の神を認め得て、私達は真理に達し得たのである。
神は天然という醜い顔で現れて、人の心を試されるのである。そして、人は見えるところによらず、見えないところによって神を認めて、自分の信仰を確実にし、その霊魂の救いを全うすることができるのである。
二つの神は、やはり一つである。深い矛盾を通して、深い自己を顕される、褒め称え尊ぶべき一つの神である。
2.真理の証明者=時
真理の証明者は理論ではない。また必ずしも経験でもない。どのような主張も、理論によって、これを弁証することができる。またどのような教理も、ある程度までは、経験によって、これを立証することができる。
もし理論と経験とより他に真理の証明者は無いというならば、真理は、これを決定するのが不可能であると言わざるを得ない。
しかし真理には、理論以上、また経験以上、さらに確かな証明者がある。
それは時である。真理は、その永存によって、それが真理であることを証明されるのである。
永く続く者、それが神の真理である。人の真理、その主義と主張、その宗教と道徳とは、永続の性を欠くので、神の真理に及ばないのである。
キリストの福音が始めて世に唱えられてからここに千九百年、その間に幾多の哲学、幾多の主義、幾多の道義は唱えられたが、しかし、今日なおその活動的存在を見る者は、ほとんどないのである。
もし理論の上から見るならば、キリストの福音に多くの欠点が有るかも知れない。しかし、それが千九百年間の大苦闘を経て、今日なお絶大な勢力を維持して人類の良心を支配することは、火を見るよりも明らかである。
キリストの福音は、その永続的生命を以て、それが神の真理であるという主張を維持しつつあるのである。
世界においてそうであったので、もちろん我国においてもそうである。開国以来五十年間、種々の宗教と道徳とは試みられたが、今日なお希望満々とした将来を有し、撃っても消えない生活力を有する者は、キリストの福音以外には、他に無いと言っても、これを拒む識者は無いと思う。
最近では、政府の威力によって二宮宗が唱えられたが、わずか三年を経ずして、今日既にその跡を認め難いほどまでに衰退した。
国粋保存主義もまた暫時にして消え、理学宗も消え、自然主義も消え、社会主義もまた揚がらず、そしてキリストの福音だけが、その主唱者が微力であるにも関わらず、それが常に愛国者の誹謗、学者政治家に嘲笑されているにも関わらず、
今日なお前と変ることなく、いやそれどころか、前よりも
より強い活力を以て、徐々に国民の心に侵入しつつあるのである。
キリスト教は既に死に瀕した宗教であるとは、我国の識者によって幾回か唱えられた言葉であるが、しかしキリスト教ほどの活力を有する宗教も道徳も、今日の我国の社会において、これを他に見出すことはできないのである。
今から千九百年前、キリストの福音が始めてユダヤにおいて唱えられた時、民の長老や学者たちはこれを厭(いと)い、その宣伝者たちを捉えて殺そうと謀(はか)った。
その時パリサイ宗の人で、民の中に名望高い
ガマリエルという人が起って、彼等を諭して言った。
イスラエルの人々よ、汝等此人等に就きて汝等が為さんとする事を自か
ら慎むべし。曩(さき)にチウダなる者起り、自から人物なりと称し、彼に
従へる者凡(およ)そ四百人ありしが、彼は殺され、彼に従ひし者は皆な散
らされて跡なきに至れり。
此人の後にガリラヤのユダなる者戸籍調査の時に起りて民を誘ひ、己に
従はしめしが、彼も亦亡び、彼に従ひし者も悉く散らされたり。
今我れ汝等に告げん。此人々に干与(かかわ)る勿れ。彼等を釈(ゆる)せ。
其謀る所、為す所人より出づるものならば、必ず亡ぶべし。然れども若
し神より出づるものならば、汝等、彼等を亡ぼす能(あた)はざるなり。恐
らくは、汝等神に逆らふ者とならん。
(使徒行伝5章35節以下)
と。そして賢いガマリエルの言葉は、キリスト教千九百年間にわたる歴史を通して、真理であった。そして今日なお真理である。今日の日本において真理である。
キリストの福音が神の永久の真理であることは、その宣伝に従事する私達の弁証によって証明されるのではない。また必ずしも、その信者の短い経験が、これを証明するのではない。時(タイム)が終にこれを証明するのである。
キリストの福音は、決して日本国において滅びない。たとえ外国宣教師が、今日直ちに日本を引き払ってその本国に帰るとしても、キリストの福音は、日本国から消えない。
キリストの福音は、日本に来て、既に永久的住所を定めたのである。既に数多の日本人の良心に侵入し、そこに強固な城砦(じょうさい)を築いたのである。
日本人のある者は、既にその慰藉によって死の苦痛(くるしみ)に打ち勝ち、活きた霊として天に昇った。そして彼等の聖(きよ)められた霊は、今や天に在ってこの国を守り、これを恩恵の国となそうとして祈りつつあるのである。
キリスト教は、今や既に「外教」ではない。仏教や儒教と等しく、日本人の宗教である。そして三者のいずれが最優等の宗教であるかは、これまた誤謬(あやまり)のない時(タイム)が証明するであろう。
特に時(タイム)を以て証明される宗教である。ゆえにキリスト教は、それが真理であることを解し得るまでに、長い時と多くの忍耐とを要するのである。キリストの福音の真理の尊さは、一年や二年これを信じただけでは分からない。
これは十年または二十年、いや実に生涯にわたって、多くの迫害に遭い、多くの艱難(くるしみ)を経て、始めて分かることである。
私達はキリストの福音に接して、永久的真理に接したのである。キリストの福音は、一時流行のいわゆる「新思想」ではない。二宮宗のように、三年を経ずに消えるような宗教ではない。
他の主義と信仰と「術」と「法」とが悉く人に忘れられる後まで栄え、いや実にこれらが悉く忘却に付せられて後に光を放つ宗教である。そうです。時である。忍耐である。
ゆえに私達は、時を得ても、時を得なくても、世に迎えられても斥けられても、罵(ののし)られても嘲られても、ただ黙して働いて待つべきである。
そうすれば確実な時(タイム)は、福音を義とすると同時に、また私達を義とし、「
彼を信ずる者は辱(はずか)しめられじ」(ロマ書10章11節)とある聖書の言葉が、私達に在って実現されるであろう。
完