全集第19巻P86〜
「悲歎と歓喜」他1編
明治45年4月10日
1.悲歎と歓喜
これは3月23日、京橋教会員藤田寛太郎氏夫妻が催された、その一子久
太郎君永眠の五周年記念において述べようとして腹案したものであるが、
都合によって出席することができなかったので、これを筆にして、ここ
に掲げることにしたものである。
親がその子の死を痛む理由は数多ありますが、その中の一つは確かに、親の手を離れて幼い者が、知らない未来の国に往って、どうしているであろうか、さぞ不自由ではあるまいか、淋しくはあるまいか、独りで知らない国に往って、道に迷いはしないか、他人に虐待されはしまいかなどという心配です。
これはまことに無益な心配であるようですが、しかし、親の情として無理からぬ心配であると思います。
これはもちろん、未来の事を明らかにしないことから、未来を現世のような所と思うことから起こる心配です。もちろん私達は、未来の状態については、少しも知ることができませんから、そのような心配は根拠のある者であるかないかを判断することはできません。
しかしながら、未来もまた神の支配の下に在る宇宙の一部分であることだけは明らかですから、これはこの世と全く異なった所でないことだけは明らかです。それゆえに私共は、この世の事に比べてみて、やや未来の事を判断することができると思います。
そしてこの世において、赤子が始めて世に来た時の状態を見ると、実に一人で他人の間に生れて来るのを見るのです。
もしある学者達が唱えるように(そしてそのような説を唱える学者は、有名なユリウス・ミレル
(おそらく http://en.wikipedia.org/wiki/Julius_M%C3%BCller )氏以外にも沢山います)、人がこの世に生れるのは、他の世界からこの世に転生するのであるとするならば、その他界を去って始めてこの世に出る時は、さぞかし淋しく感じることであると思います。
たとえ当人にそのような感じは無いとしても、
他界のその父母兄弟等は、私共この世の者が、私共の愛する者を失った時と少しも変らない感を抱くであろうと思います。
しかしながら、事実はどうでしょうか。赤子は一人でこの世に生れて来て、果して孤独で寄る辺がないでしょうか。
決してそうではありません。母があって、これに乳を与え、父があって、これを膝に乗せ、兄弟があって、これを歓呼して迎え、父母の友人があって、その出生を祝するではありませんか。
この世にあって、出生ほど人に喜ばれることは、無いではありませんか。新しい人が世に出たと言って、歓喜は一家に溢れるではありませんか。これを他界における憂愁に比べてみれば、天地雲泥の差があるではありませんか。
私はこの世における人の死も同じ事であると思います。死を悲しむ悲歎は、人を送る悲歎です。私共の間から、愛する者の一人が消え失せたことを悲しむ悲歎です。
しかしながら、送られる者はまた、迎えられる者です。そして迎える者は、送る者とは全く異なり、大いに喜ぶのです。私共はかつて、新しい人を迎えて、大いに喜んだのです。しかし今は、送る者となって、悲しむのです。
しかし私共がこの世において喜んだ時に、他界において悲しむ者があったのであるとすれば、今日私共が現世(このよ)において悲しむ時に、かの世においては喜ぶ者があるに相違ありません。
私共が愛する者は、私共の手を離れて、一人で知らぬ未来に往きましたが、しかしそこにはまた、多くの彼の歓迎者があって、彼は少しも孤独を感じず、不自由、危険等は、少しも無いのだと思います。
同じく神がお造りになった宇宙です。肉の世界も霊の世界も、同じく神の法則が行われる世界です。この世界に行われることが、彼の世界において行われない理由(わけ)はありません。
この世の誕生の祝いがある時に、前の世に葬式の悲しみがあったとするならば、同じくまた、この世に葬式が行われると同時に、後の世にまた誕生の祝いが挙げられるのであると思います。
もちろん、前の世についても、また後の世についても、確かに知ることのできない私共に、詳しい事は分かりませんが、しかし、私共がよく知っているこの世の事実に照らしてみて、私が今ここに述べた推測が、当らなくても遠くはないことを疑わないのです。
なおまたこれに類することを、他の事についても見るのです。親がその娘を他家に嫁(か)する時にも、同じ事が行われるのです。娘をやる家と、もらう家とは、その感情においては天地雲泥の差があるのです。
やる里方にとっては、悲雲全家を蔽い、園の庭木の一本が、根元から抜かれて他家に移されるような感がするのです。翻ってもらう新郎(にいむこ)の家を見れば、家庭に新たに花が咲き出して、歓喜が全家を圧するという状態(ありさま)です。
悲しむ家があり、喜ぶ家があり、生みの親は、我が娘を奪われたように感じると同時に、義理の親は、新たに娘を得たと言って喜ぶのです。無慈悲と言えば無慈悲です。しかし、これが世の中です。
結婚祝儀と言えば、喜ばしい事ばかりであると思いますが、しかしその裏には、生みの家を去る娘の涙があります。彼女を送る両親の悲しみがあります。この涙、この悲しみがあって、新郎新家の歓喜があるのです。
同じ事が、死の場合においても行われるのではないでしょうか。
死は、結婚の一種ではないでしょうか。葬式の悲歎(かなしみ)というのは、里方の親が、その娘を嫁にやる時の悲歎ではないでしょうか。
もしそうであるなら、死は悲歎(かなしみ)だけのことではありません。悲歎はわずかに、その半面です。泣く生みの親がいる一方、喜ぶ新郎がいるのです。この世において葬式の鐘が鳴る時に、かの世においては祝儀の鐘が響いているのです。
娘は旧い家を去って、寄る辺ない孤独者となったのではありません。彼女は本当の家に入ったのです。
一喜一憂は、人生の免れることのできない事であると言います。そして憂いのない喜びは無いように、喜びの無い憂いは無いはずです。私共は、この世における私共の実験に照らしてみて、死の悲歎が、悲歎ばかりでないことを知るのです。
私共が失った私共の愛する者は、その旧い私共の家を去って、新しい新郎、即ちキリストの家に往ったのです。悲歎が私共の方にあると同時に、歓喜は新郎の方にあるのだと思います。
このように考えると、私共が幼い者の死を悲しむ理由の一つは取り除かれるのであると思います。私共は生きても死んでも、神と神がお造りになった宇宙の外に出ることはできません。
そして愛の法則が至る所に行われるこの世の事から推して見て、死が決して悲しむべきことではなく、また来世が決して恐るべき所ではないことを知るのです。
2.無教会主義を捨てず
私の家に大きな悲痛が臨みました。しかしながら、私はある人々が言いふらしているように、そのために無教会主義を捨てません。
無教会主義とは、言うまでもなく、聖徒の交際を絶つことではありません。宗教の名を以て立つ、この世の制度が不要有害であることを唱える主義です。そしていわゆるキリスト教会の中から、この世の精神が全く絶たれるまでは、この主義を唱える必要があるのです。
ある明白な意味において、昔の預言者等は、無教会主義者であったのです。イエスは当時の無教会主義者であったので、パリサイの人、サドカイの人等の当時の教会主義者等に十字架に付けられたのです。
革命当初のルーテルは、確かに激烈な無教会主義者でした。彼は周囲の事情に迫られて、終にローマ天主教会に劣らない、教条(ドグマ)的教会を作らざるを得なくなって、ここに悲しいことに、彼の当初の革命の精神は、消えてしまったのです。
ウェスレーは、終生自分は英国聖公会の正会員であると言いましたが、しかし聖公会は、今になっても彼をその謀反人と認め、地上唯一の歴史的正教会を無視した者であると唱えています。
近世に至って、稀有(けう)の哲学者であって熱誠のキリスト信者であったデンマーク国のゼーレン・キルケゴール(
http://en.wikipedia.org/wiki/S%C3%B8ren_Kierkegaard )が、彼の鉄槌を北欧のルーテル教会に加えてから、無教会主義は、古代の預言者の熱烈を以て、信者の迷夢を醒ませたのです。
私は重ねてここに申します。無教会主義は、不肖私が始めてこの国で唱えた主義ではありません。これは、イザヤ、エレミヤ等から始まり、今なお多くの正直なキリスト信者等によって懐かれ、かつまた唱えられる主義です。
そのように申しても、私は今のキリスト教会の中に、一人の善人、一人の真正の信者がいないと言うのではありません。多くの善い人、多くの義(ただ)しい人が、その中に居ることは、私が充分に認めるところです。
そしてまたその中の少なからざる人々を、私の友人と称することができることを、私は喜びまた感謝しています。
しかしながら、主義は主義です。これは私的交際のゆえに変えることのできる者ではありません。私がルーテルやキルケゴールに従って、教会制度を攻撃するのは、教藉を教会に置く人々に人身攻撃を加えることではありません。
私は、今のいわゆる教会なる者に、制度として反対するのです。そして私のこの反対に同情を寄せられる者が、教会の中にも在ることは、否定できない事実です。
そのことは、常に無教会主義を唱えて変らないこの「聖書之研究」誌が、その発刊当時から、諸教会の多くの信者教師たちによって、少なからざる同情を以て読まれて来たことによって分かります。
もちろん悪い制度は悪い人を生みます。そして今の教会なる者が、多くの悪人の隠れ場となっていることは、私ではなく、教会内の有識者が充分に認めるところです。
そして彼等と私とが説を異にする点は、私が「鼠族(そぞく)が跋扈(ばっこ)する納屋(なや)は、焼き払うのが一番である」と言うのに対し、彼等は、「それは違う。そうしてはならない。鼠族を除けば足りる。しかし、納屋はそのままこれを保存すべきだ」と言うのです。
問題はつまるところ、洗清実行の問題です。信仰の根本に関わる問題ではありません。すこぶる重要な問題ではありますが、しかし、福音の死活に関わる問題ではありません。
こう言って、私はこの際、媚(こび)を教会に送って、その同情を求めようと思っているのではありません。
私は、私が今日有する以上に、友人も同情者も要りません。もし教会が無教会主義を理由に私を嫌うのであれば、私は喜んで彼等に嫌われます。私は今日までの経験によって、教会と交わることは、決して私の利益でない事を知ります。
教会は幾回か私を使いましたが、未だかつて一回も私を助けてくれたことはありません。
私は信じます。
たとえ私がキリストの聖名(みな)のゆえに、私の国人に十字架に挙げられることがあっても、教会はその指を一本でも挙げて、私を助けようとはしないことを。
教会は常にこの世と主義方針を共にします。この世が戦争を唱える時には、熱心に戦争を唱えます。この世の世論は、常に教会の世論です。教会は、この世の政治家、学者等の名を借りて、その事業を成そうとします。
そして私は、イエスの弟子として、教会と歩調を共にすることはできません。私は自分が欲しても、教会に入ればキリストにおける私の信仰を維持することはできません。
私はこのような事態を、甚だ悲しみます。しかし止むを得ません。私にとっては、良心の声は、教会の命(めい)よりも重いのです。
私はこの事について、なお一言、言っておきます。即ちかつて本誌において唱えたように、
もし万一私が教会に入ることを余儀なくされるならば、私はローマ天主教会に入ります。
私が知る限り、これが地上唯一の矛盾のない教会です。もし地上の目に見える教会が、信者各自に必要であるならば、ローマ天主教会こそ最も完全に、その必要に応じる者であると思います。
殊に今のローマ天主教会が、昔のそれとは異なり、その布教に、この世の方法を用いず、この世の権勢に依らないことは、注目すべき事実です。私の見るところでは、
ローマ天主教会は、すべての教会中最も非俗的な教会です。
最も敬虔の念に富み、最も高貴な教会です。ただその教義に、多くの解し難いところがあるので、私は今日これに入ることができないのです。しかしながら、制度完全の点から言って、これに優る教会は、地上には無いと思います。
多くの点において、ローマ天主教会は、最も寛大な、最も善く人情に適った教会です。今日の天主教会において、カルビン主義の新教諸教会において見るような、残忍冷酷な事を見ることはありません。
無教会でなければローマ天主教会、私の選択は、ただこの二つに限られているのです。そして私は、今は前者を選ぶのです。後日の事は知りません。今日はなお私は、無教会信者であることに満足するより他に、善い道を発見することができません。
完