全集第19巻P94〜
「キリスト教とその信仰」他1編
1.キリスト教とその信仰
イエスを友とするに他ならない (3月7日大森にて)
明治45年4月10日
ヨハネ伝1章43節以下
キリスト教は何であるかとは、不信者だけでなく、信者にもたびたび起こる問題である。
キリスト教は、キリストと唱えられたナザレのイエスである。そしてキリスト教を信じるとは、イエスを友とすることである。至って単純である。別に難しい事ではない。教会に入るとか、教義を探るということは、キリスト教に入るための必要条件ではない。
イエスを友とすれば、キリスト教に関するすべての事は分かるのである。イエスさえ分かれば、それでキリスト教は悉く分かるのである。
イエスを友とする前に、もちろん彼について知る必要がある。そしてイエスについて詳しく私達に告げる者は、聖書である。そこから聖書研究の必要が起こるのである。
聖書、殊に新約聖書は、イエスの伝記である。彼をすべての方面から伝えようとしたもの、それが新約聖書である。ゆえに聖書を読まずには、イエスは分からない。したがってキリスト教は分からない。
聖書の研究をなおざりにしてキリスト教を語るのは、天を仰がずに天文を語るのと同然である。それにもかかわらず、そのような事は、無い事ではない。
もちろん既にイエスを友とした者に接することは、直接彼に接するようになるまでの階段として有益である。ある場合において教会に入る必要があるのは、このためである。
しかし、目的はイエス御自身に直接接することにある。教会の人物に接して、その感化を受けることにではない。
イエスを友として、始めて神が何であるかが分かるのである。神の存在は哲学によって証明することはできない。世に神学なるものがあるので、これを究めれば必ず神が分かるだろうと思う人がいるかも知れないが、事実は決してそうではない。
「
未だ神を見し人あらず。惟(ひと)り彼の生み給へる独子(ひとりご)、即ち父の懐に在る者のみ、彼れ之を彰(あらわ)せり」(ヨハネ伝1章18節)。神はイエスを見て、始めて分かるのである。イエスを友とするまでは、神は決して分からない。
先ず神の存在を認めて、その後にキリストを信じようと思う者は、神をもキリストをもとうてい信じることのできない者である。神を知る近道、いや実に唯一の道は、イエスを知って彼を友とすることにある。真の神は、その独子として顕現されたイエスによってのみ知ることができる者である。
イエスを友として、始めて人とは何であるかが分かる。人は誰でも、自己を知る必要がある。ところが憐れなことに、彼は自分で自身をさえ知ることができない。
人が如何に貴い者であるか、人生が如何に意味深い者であるか、自分がこの世に生れた理由、患難の説明、これ等はみな、イエスが明白に私達に告げて下さる事である。
人はイエスを知ると同時に、自己を知るのである。イエスを知ることによって、内なる新宇宙が、私達各自に示されるのである。
イエスを友として私達が計画するすべての善事が実行されるのである。私達は、私達の心の穢れを払い落そうと欲するか。道徳修養の工夫を凝(こ)らしても、その効果は甚だ少ない。
心をその根底から清める唯一の方法は、御自身は罪を犯されなかったイエスを、我が友として心中の奥座敷に請(しょう)じ入れることである。彼の降臨によって、悪魔はその光輝に耐え得ずに私達を去り、私達は自ら聖霊の聖殿(きよきみや)となることができるのである。
この世の教会と神学とが、人心清洗の途として悉く失敗に終わるのに反して、イエスだけは、彼を友として迎える者を、今日でも誤りなく清めて下さるのである。
世の道徳問題は、すべてイエスを以て決まるのである。青年男女に新約聖書の示すイエスを紹介し、彼を彼等の友として有(も)たせれば、彼等はこの危険極まりない社会に在って、安全なのである。
もし家庭を清めたいと望むなら、イエスを迎えよ。イエスを主人公とすれば、その家庭は、清からざるを得ない。
イエスを嘲り、彼と何の関係をも有たない今の政治家と、彼等によって成立する義会等に、汚穢と腐敗とが充ち満ちているのは、あえて怪しむに足りない。イエスが居られない所に、未だかつて清浄な政治が有ったことはない。殊に清潔な自治政治が有ったことはない。
イエスを友としてだけ、人は歓喜し、希望を懐いて死ぬことができるのである。死は小事ではない。大事である。死は、少数の不幸者だけに臨む事ではない。誰にでも来る事である。人は誰でも、死を迎える準備をする必要がある。
彼は単独(ひとり)で死の河を渡らなければならない。その時には、医師も牧師も彼に何の用をも為さない。また哲学も宗教も、彼の助けとはならない。死の河を渡る時の唯一の伴侶(とも)、唯一の慰藉者(なぐさめて)はイエスである。
彼に連れられて死の旅は、寂しくないのである。イエスだけが、現世と来世とにまたがる友人である。この人だけが、無限の大海に乗り出す時の唯一の水先案内である。
実に人の生涯にとって、イエスを知り、彼を友とすることほど大切なことはない。そしてこれは、難しいようで、至って容易なことである。キリスト教を信じてキリスト教会に入ると言えば、至って難しいようであるが、しかしイエスを友とすることは、誰にでも為し得ることである。
そして彼と友誼を続ければ続けるほど、彼について深い事がだんだんと分かって来て、別に宗教や神学を研究しなくても、人生の奥義がだんだんと彼によって示されるのである。
即ち彼がナタナエルに向って、「
天開けて神の使者等(つかいたち)人の子の上に昇り降りするを見ん」(ヨハネ伝1章51節)と言われたように、
私達は、イエスと聖父(ちち)との間に、霊的交通が頻繁で、彼に在って実に天が地に接し、神が人の間に現れ、現世と来世との間に、強固な懸橋が架けられて、人がこれによって、ここから彼処に達し得る道が開かれたことを見るのである。
イエスを知り、彼を友とすること、これがキリスト教である。信仰である。また永生(かぎりないいのち)と言っても、これを除いては他にはない。
即ち、「
永生とは、唯一の真の神なる汝と、其遣(つかわ)ししイエス・キリストを識ること是れなり」(ヨハネ伝17章3節)とイエス御自身が言われた通りである。
2.家庭と宗教
明治45年4月13日
(明治45年3月17日午後2時一宮町婦人会における講演記録)
私は、「家庭と宗教」という演題の下にお話しします。先ず第一に私達は、
宗教とは何であるかということを考えなければなりません。
近頃は宗教ということについて、多くの人々が考えるようになり、内務省あたりでも宗教家会同などをやって、宗教ということに注意し始めたことは、大いに喜ぶべきことです。
人間に宗教が必要であることは、お米が人間に必要であるのと同じ事です。ことによっては、お米よりも必要です。
ある人は、宗教は愚夫愚婦には必要であるけれども、知識のある人には必要ではないと言います。しかし、これは大きな誤りです。私は今、宗教がどうしても人間に必要である、その理由(わけ)を三つお話ししようと思います。
第一の理由は、誰にも魂があるからです。魂がなければ、宗教は必要ありません。もし諸君の中に、身体だけで魂などというような目に見えないものは無いと言う人がいるならば、それは甚だつまらない人です。
何故ならば、魂があるから年老いて身体が衰えているにもかかわらず、身を忘れて国のため世のために働こうという気になるのです。どんなに貧乏しても、どんなに飢えても、他人の物は盗むことをしないというのは、身体の他に魂が存在している証拠ではありませんか。魂が無くなるのが、即ち堕落です。
魂が身体よりも大切であることは、誰でも知っています。魂について明らかに知り、魂をしっかりと有たせるようにするのが宗教です。もし魂が人に在って、それが人として存在するのに一番大切なものであるならば、宗教はどうしても必要であると言わなければなりません。
第二の理由は、宇宙には神様が存在するからです。この事は誰でも少しずつは知っている。神様が在(あ)ることは、明瞭には知らない人でも、この世に人間以上の者が在ることは、認めないわけにはいかない。
人間以上の力を有っている者を、神様と名付ける人もいますし、仏とか、如来とか言う人もいます。名前はどうでもよい。この人間以上の力を認めています。これが宗教の起こる第二の理由です。
世界のどこに行っても、宗教の無い所はありません。即ち如何なる人でも、人以上の力を認めないわけにはいかない証拠です。この人間以上の者を拝するのが宗教です。
世に人間以上、国家以上、政府以上の力が存在することは明白です。この力が存在することを認めて、人間は高尚に成り得るのです。人間の目や国家の目の届かない所まで神様が見ていて下さることに気が付けば、悪いことはできない。たとえ人が見ていない所で悪いことをしても、神様が見ているから恐ろしい。
善いことをしていれば、たとえ人が見ていなくても、国家が表彰しなくても、あるいは世から誤解されて憎まれようが、神様が見ていて下さることに気が付けば、常に心を安らかにしていることができます。
誠実さを守るには、人に対してだけでなく、人以上の存在である神様なり仏様なりを信じて、始めてその全きを得るのです。今の日本の人に誠実ということが欠けているのは、宗教を信じないからであると思います。
人間を立派な者にするには、神様を信じるようにするより他はありません。人間を蔭、日向(ひなた)のない誠の人間とするには、神を信じるようにするより他に途はありません。
この神様ということは、誰でも少しは知っているが、これを明瞭に教えるのが宗教です。もし人以上の力が宇宙に無いならば、宗教は要りません。これがあるなら、宗教が要るのです。これが、宗教が必要な第二の理由です。
宗教が必要な第三の理由は、人は死んでも死なないものであるからです。これは、人が他の動物と異なる点です。
死んだ後に来世があるものであることは、誰でも少しは知っています。肉体(からだ)が死んでしまうと、魂もそれっきりで死んでしまうものであるとは、誰も思わないようです。その証拠に、日本でもお盆には死んだ人の霊魂が降って来ることを信じています。
ここに居る我々のうち、幾人が七十年八十年後まで生きているでしょうか。恐らくみんな死んでしまうでしょう。世の中に何が確かだと言って、私達に死が来るという事ほど確かなことはありません。
私達が死んで死なないものならば、この来世の観念を明らかにしておく必要があります。この事を明瞭にするのが宗教です。
世界の偉い人は、みんな来世を知って死んでいます。来世を信じない人は、真につまらない人です。
この三つのこと、魂のあること、神様のこと、来世のことを知って、これ等を認めようと思うなら、宗教の必要があります。宗教とは、この三つのことを明らかにするものを言うのです。
多くの現今の日本人は、宗教と言えばお寺で経を読んでもらうこと、死んだ時葬ってもらうことを申します。けれどもそんなことは、宗教ではありません。
またある人は、木か金で作られた像を拝むのを宗教だと言っています。けれどもそんな事も宗教ではありません。お寺の坊さんに聞いてごらんなさい。あの像は、ただの印なのです。あれを拝むのではない。あれは、拝むものを型どったに過ぎないのです。
宗教とは、三つの事
(即ち魂のこと、神様のこと、来世のこと)を明らかにするものを言うのです。
道徳は単に魂の外に現れた道です。宗教があって、初めて道徳が立派に行われるのです。道徳だけでは、人は心の奥底から改まるというわけにはいきません。それですから如何なる人でも、宗教が不必要だという人はいません。
宗教が無ければ、人間の存在はありません。したがって宗教が無ければ、町村もありません。国家も存在しません。犬や馬の国でない以上、金があり教育があっても、国家は成り立ちません。
さて、いよいよ本問題に入りましょう。先ず第一に家庭とは何であるかを考えてみましょう。
家庭とは、系統(ちすじ)の同じ人々が、一つ屋根の下で一つの釜の飯(めし)を食っているというだけの所ではない。また、ただの休息所ではない。世に家庭ほどうるわしいものはありません。その美しさは、私は形容に苦しみます。
家庭とは、「天国の出張所」とでも申したらよいでしょう。天国とは、愛を以て結びついている所を申すのです。親子、兄弟、姉妹が、互に相愛し、互いの間に遠慮なく喜び打ち明けて、共に相喜び、悲しみも打ち明けて共に同情し合う所、それが即ち家庭(ホーム)です。
それゆえ家庭には金は必要ではありません。立派な家や美しい着物は要りません。楽な暮(くら)しも必要ではありません。
日本には家庭雑誌、婦人雑誌として善いものはありません。家庭雑誌に、さも幸福な家庭らしく書いてあるものは、華族の家庭とか金持ちの家庭についてです。その口絵は、何爵夫人の盛装した様子を描いたものです。
そんなものは家庭には必要ではありません。愛と愛とを以て結びついて、互の間に遠慮のない所が家庭です。日本に真の家庭が少ないのは、宗教が家庭にないからです。
我国の家庭において常に在るのは、嫁と姑との争いです。私は、これが外国にもあることと思って外国(あちら)に行った時、二三度人に尋ねて恥をかいたことがあります。
嫁と姑とが仲が悪いというのは、日本ばかりです。もし日本に善い宗教が在ったなら、そのような事は決して有りません。
なるほど嫁と姑との間の関係は、身体の上から言えば他人です。しかしながら、人間に大切なのは魂です。魂は、身体以上のものです。魂を説いて魂を近寄らせれば、必ず円満になります。
世の多くの人は、利害を説いて、この円満を計ろうとします。例えば姑に向って、「御前さんの死ぬ時は、嫁さんの世話になるのだから、辛抱なさい」とか言って、嫁に向っては、「姑さんはもう先が短いのだから、御前さんもわずかの間辛抱すれば楽が来るから御待ちなさい」などと言って忠告します。
しかし、そんな忠告で永遠の円満が計られようとは思えません。嫁も姑も魂を一つにして、一つの神様を信じ、二人共に一つの神様の子となり、二人共に一人のキリストという模範人物を先生として仕えたならば、両者の間にどうして距(へだ)てがあるでしょうか。仲が良くならずにはおられません。
宗教のある家庭に争いが無い事は、これでも分かるでしょう。また来世を信じたならば、家はどれほど楽しいでしょう。
死んだ家の者は、常に忘れられないで、この世に残っている家族と魂の上において交わりを続けているとしてごらんなさい。如何にうるわしいことでありましょう。仲が悪かった家族の一人がこの世を去ったために、残っている家族が、魂を一つにして仲が良くなった例は少なくありません。
これ等は、宗教によって来世の念を明らかにして、初めて得る幸福です。
家庭を善くするには、宗教の力に依るより他はありません。宗教の力によって家庭が善くなることが、町村や国家が善くなる根本です。
町村民が正しい誠実な民となるには、人の目に見えない所を常に見ている神様を信じるより他に途はありません。
一宮町は日本中で第一のよい町長を得たけれども、町長の目が届く所は実にわずかです。いくら良い町長を有っても、町民の一人一人の心の中に神が現れ、心の底から改まらなければ、真の良い町はできない。一宮町の真の幸福を得るには、町民の一人一人が、宗教を信じる以外に途は無い。
私は諸君が、自己の家庭のため、町のため、国のため、人のために良い宗教を選んでそれを信じ、真の幸福を得られることを希望します。
完