全集第19巻P110〜
地上の教会に関するイエスの比喩的預言
(マタイ伝第13章の研究。4月28日東京数寄屋橋教会において)
明治45年5月10日
福音の真理を講じるに当って、何も必ずしも聖句と称して、聖書の一節または数節に依る必要はない。その一章に依ることも可である。その一書に依ることも可である。
聖書は、豊富な金鉱のような者である。鉱山として貴い。また鉱脈として貴い。また金塊として貴い。聖書の言葉は、一言一句、ことごとく純金である。
是を黄金(こがね)に較(くら)ぶるも、
多くの純精金(まじりなきこがね)に較ぶるも、
いや優りて慕ふべし
(詩篇19篇10節)
である。しかし、金塊は相連なって鉱脈を成しているのである。あるいは一章を成し、あるいは数章にわたって金言玉語は相繋がって、真理の首飾りを成しているのである。そして鉱脈は相集って、真理の鉱山を成しているのである。
マタイ伝にしても、ルカ伝にしても、ロマ書にしても、コリント前書にしても、ヨハネ書簡にしても、黙示録にしても、それぞれ真理の鉱山である。私達はその採掘に従事して、真理の無尽蔵に接せざるを得ない。
今ここに研究しようとするマタイ伝第13章もまた、価値の貴い真理の鉱脈の一つである。ここに地上の教会に関するイエスの教訓が、順をなして示されているのである。
言うまでもなく、その53節が悉く金科玉条である。しかしながら、全章にわたって、一大教訓が伝えられているのである。私は今ここに、字句の詳細に入って、これを説明しようとはしない。全章の意義を明らかにしたいと思う。
イエスは、彼の名に因(よ)って建てられようとした天国、即ちこの場合においては地上の教会の建設、組織、成長、変体、復興、貴尊、終局等について、どのように観られたか、これがこの章の伝えるところである。
そしてイエスはこの重大な事項(ことがら)を伝えるに当って比喩を用いられたのである。堂々とした議論によってせずに、卑近なたとえ話を用いられたのである。
マタイ伝第13章に、キリスト教会過去二千年間の歴史が、漏れなく予言されていると言うことができる。また未来終末に至るまでの成り行きが、悉く示されていると言うことができる。
教会建設は、どのようにして成るかとは、種播きのたとえが示すところである。このたとえ話の示すところに従えば、人は悉く福音を聴いて信じる者ではない。
ある人は、いや実に多くの人は、福音を耳にしてもこれを受けず、ある人は受けても直ちにこれを捨て、ある他の人は信じても実を結ぶに至らずに枯れる。そして極めて少数の者だけが信じて、百倍あるいは六十倍、あるいは三十倍の実を結ぶに至る。
即ち世を駆り立てて悉く信者にすることは、望めない事である。召される者は多いが、選ばれる者は少ない。一国を挙げてキリスト信者としようとするような事は、無謀な企てである。
伝道は、如何によく功を奏しても、社会を挙げてキリストに従わさせることはできない。光は闇に照っても、闇はこれを悟らなかったとは、古今東西にわたって変らない真理である。
キリスト者が国民の多数を占めるようになるようなことは、未来永劫に至っても望めないことである。預言者イザヤが言ったように、「唯少数者のみ救はるべし」である。
私達は、何故そうなのかを知らない。しかし、イエスはそう言われた。そして今日までの事実がそうである。神はすべての人が救われることを欲しておられるが、事実は、ただ少数者だけが救われることを示すのである。
それでは、世から選ばれた少数者を以て組み立てられた教会は、義人聖徒だけから成る団体であるか。この事を説明したものが、次に来るカラス麦のたとえである。詳しいことは、かつてこれを「聖書之研究」第131号「毒麦の比喩」において述べておいた。これを読まれることを望む。
カラス麦のたとえは、教会の不純を示す者である。即ちそれが純潔無垢の者ではないことを示す者である。その中に真の信者がいる。同時にまた、似て非なる信者がいる。そして真の信者と偽りの信者は、今の時に当っては、これを判別することができないということである。
カラス麦は、その実が熟するまでは、これを本当の麦と区別することができない。真偽混合は、この世において免れられない事である。そしてキリスト教会もまた、その数に洩れない。
多くの狼(おおかみ)は、羊の皮を被って主の群羊(むれ)の中にいる。そしてその神学を以て、忠実らしい正統派の信仰を以て、単純で正直な信者を欺く。
教会は偽信者の巣窟であるとは、私が始めて言ったことではない。主イエス・キリストが予め、しかも明らかに唱えられた事である。カラス麦のたとえによって、地上の教会が決してキリストの花嫁ではない事を知るのである。
エペソ書5章27節で言っている「
汚点(しみ)なく皺(しわ)なく聖にして瑕(きず)なき教会」は、未だかつて地上に在ったことはない。また在り得ない者である。地上の教会はすべて悉く玉石混交である。そしてキリストは始めから明らかにこの事を示されたのである。
そしてこの玉石混交、偽善者潜伏の教会は、この世においてどのように発達するのであろうか。これが第三の比喩、即ち芥種(からしだね)の比喩が示すところである。
この比喩に従えば、教会はこの世に在って、急速に成長する。芥種(からしだね)が成長するように成長する。芥(からし)は草本(くさ)である。しかし、一年で樹の高さにまで達する。
そしてその枝は広がって、天空(そら)の鳥が来て、その中に宿るようになる。そのように教会もまた始めはごく微々たる者であるが、しかし数十年または数百年もしないうちに(歴史的短時期のうちに)大制度となり、終に王侯貴族をその中に宿らせるに至ると。
このたとえの中に「天空の鳥」とあるのは、鶯(うぐいす)や駒鳥(こまどり)のように、羽毛が美しくて、声の良い鳥類を指して言うのではない。聖書においては、鳥はたいていの場合において、悪い意味で用いられている。
この章の4節において、「天空の鳥来りて啄(ついば)み尽せり」とある。そしてこの鳥は真理の種を食い尽す悪魔を示す者であることは、第19節におけるキリストの説明によって明らかである。
またエペソ書2章2節に、「空中にある諸権を宰(つかさど)る者」という言葉があるが、これもまた、前後の言葉に照らしてみて、悪魔を指すものであることは明らかである。
ゆえに「天空の鳥」と言えば、鷲、ミサゴ、禿鷹(はげたか)のような猛禽を指して言うのである。人に益を与える鳥ではなくて、人に害を及ぼす鳥を指して言うのである。
そして教会が成長して終に天空の鳥の宿る所となると言うのは、終にこの世の権者、富者、政治家等、下民を圧する者の住処(すみか)となるということである。
黙示録記者の言葉を借りて言えば、教会は終に、「
悪魔の住処、また種々の汚れたる霊、及び穢れたる憎むべき鳥の巣となる」(18章2節)とのことである。
芥種(からしだね)の比喩は、教会の急速な成長に伴う、その俗化を示した者である。この世の権者、政治家、新聞記者等の侮蔑嘲弄を以て始まったキリスト教会は、遠からずして彼等の住処、隠匿場所(かくればしょ)と成ってしまうとの、イエスの予言である。
そしてこの比喩的予言は、至る所で的中したのである。ローマに在っては、大帝コンスタンチンは自らキリスト信者となり、教会をその保護の下に置いて、彼の圧制を施したのである。
新教がドイツに起れば、これまた遠からずして政府の機関となったのである。英国における聖公会、ロシアにおける正教会、いずれも天空の鳥の宿る所となって、真理と自由との圧制機関と成らなかったものはない。
そしてまた、もし歴史はそれ自身を繰返すものであるならば、同じ事が日本においても行われないとは限らない。
かつては賎しめられたキリスト教会が、社会の尊敬を引くようになり、政治家が宗教の必要を唱え、新聞紙がこれに和するに至って、キリスト教会は一転して世のいわゆる上流社会の慕い求める所となり、終に彼等は群をなして、その中に巣を作るに至る。
これは最も恐るべき時である。そして私は既に、そのような兆候を今日の我国のキリスト教会において見るのである。
「我が教会に勅任官あり」と言って誇る者、「我が教会に陸海軍将官の家族が出席する」と言って得意げなもの、これらは皆、知らず知らずのうちに、キリストの芥種(からしだね)のたとえを実現しつつあるものである。
微小なキリスト教会が、社会に歓迎されるようになって急速に成長し、貴顕紳士等天空の鳥の住む所になるであろうと、これが芥種の比喩が明白に伝えている予言である。
(以下次回に続く)