全集第19巻P122〜
日本のキリスト教会における故本田庸一君の位置
明治45年5月10日
(4月12日東京青山学院において催された同君追悼会において)
私は、本多君の友人であったと言うことはできません。また無教会主義である私が、日本美似教会
(メソジスト教会)の監督である君と、事業を共にしなかったことは、言うまでもありません。
しかし、私もまた君と同時代に、この同じ日本国に生れて来て、同じ救主イエス・キリストを信じた者の一人です。かつ、常々君に対して厚い尊敬を抱いていたので、今夕ここにいささか、君に対し私の哀悼の意を表する次第です。
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城の石垣に十二の基址(もとい)あり。其上に羔の十二使徒の名あり。
(黙示録21章14節)
もしキリストが日本において、彼の新エルサレムを築くために、十二使徒を有されたとするなら、その一人が本多君であったことは、誰も疑いません。
それではその他の十一人は誰であるか、その事は今ここに問う必要はありません。また本多君は、十二使徒中の誰に当るか、その事も正確に定めることはできません。
私達は使徒たちの人となりにについて、多くを知りません。ペテロ、ヨハネ、ヤコブについてやや多くを知り、ピリポ、トマス、マタイ、ナタナエルについて少し知っています。
しかし、その他のアンデレ、アルパイの子のヤコブ、ヤコブの兄弟でダッタイと名付けられたユダ、カナンのシモン等については、ただその名を知るだけであって、その行為については、ほとんど何も知らないと言って宜しいのです。しかし、彼等の中に本多君のような人物が、一人いたことだけは明らかです。
十二使徒は、十二の代表的人物です。キリストは、その家をお建てになるに当って、これをペテロとかヨハネとか言う一人または二人の大人物の上にお建てにならずに、十二の代表的人物の上にお建てになったのです。
新エルサレムは、十二基(だい)の土台石の上に築かれたのです。そしてその上に羔(こひつじ)の十二使徒の名が刻まれたのです。
それでは本多君は、日本における新エルサレムの土台石の一基として、どのような精神、どのような方面を代表されたのでしょうか。
十二使徒は様々でした。ペテロは動かない岩のような確信を代表しました。ヨハネは深い神秘的な悟りを代表しました。もしパウロを十二使徒の一人として数えるならば、(そして私はそう為すべきであると思います)、彼は熱誠に加えてギリシャ的な分析的理性を代表しました。
その他税吏(みつぎとり)であったマタイは実務的才能を代表したでしょう。カナンのシモンは、愛国的熱誠を代表したでしょう。その他各自それぞれ、尊ぶべき精神の一面を代表したでしょう。
そして今本多君を十二使徒の一人に当てはめようとして、君はどのような精神を代表した者と見るべきでしょうか。
君が日本初代のキリスト教界における神学者のパウロでなかったことは、葬儀の際における井深君(井深梶之助
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E6%B7%B1%E6%A2%B6%E4%B9%8B%E5%8A%A9 )の言葉に照らしてみても明らかです。
それでは、本多君は神秘的なヨハネであったかと言うと、これまた君の友人のすべてが肯定出来ないことであると思います。
それでは、熱情に駆られて時には前後を忘れたペテロであったかと言うと、本多君は、ペテロであるには、あまりに冷静であったと思います。
君は愛国者でしたが、しかし攘夷のシモンではありませんでした。事務の才を有っておられましたが、税吏のマタイのそれとは違っていたと思います。
それでは本多君は、どのような才能、どのような徳望、どのような品性を以て日本キリスト教界の十二使徒の一人として立たれたのでしょうか。
前にも申上げた通り、私は名を指して十二使徒中の一人を本多君に当てはめることはできません。しかしながら、本多君の特性が何であったか、その事は君の公的生涯について少しでも知っている者なら誰でもよく知っていると思います。
本多君の特性は、平和です。「やわらぎ」です。Reconciliationです。その事は、先日君の葬儀の時に、山田寅之助君が読まれた君の履歴を見ればよく分かります。
本多君は、日本国にかつていた最良の県会議長でした。君によって、犬猿もただならない南部と津軽とは、平和の間に青森県の県事を議することができたのです。もし君が、政治的野心を捨てなかったならば、君が日本国最良の衆議院議長となられたことは、誰も疑いません。
君によってメソジスト三派は結合したのです。君によってキリスト教の諸教派は、一致しようとしつつあったのです。君によって外国人は、内国人と和合し、君によって信者は未信者と融和し、そして実に、君によって日本国は、少なからず全世界と融和したのです。
本多君は、至る所に平和の春を持ち運びました。君に接して、私達は怒ろうと思っても、怒れませんでした。平和は君の天然性でした。そして君に在っては、この天然性は、平和の主なるイエス・キリストに接して、著しく発達したのであると思います。
そして日本国初代のキリスト教界に在って、本多君が必要であったことは、私がここに申し述べるまでもありません。四十何派という多くの宗派が、外国宣教師によって、日本国に輸入されたのです。
そして封建制度の下に、地方的精神がほとんどその極端にまで達した日本人が、これを受けたのですから、火に油を注いだとは、この事です。宗派心は、日本人の中に注入されて、いっそう激烈になったのです。
宗派心は、外国のキリスト信者間にあっても盛んです。しかしながら、私の見るところでは、日本のキリスト信者の間に在って、宗派心は、その最も忌むべき形で現れたのであると思います。
外国宣教師は、日本国に宗派を輸入して、どのような害毒を流したかを知りません。彼等が私達の前に置いた躓きの石は、私達を深く傷つけたのです。彼等はこの事について、深く神の前に懺悔する必要があります。
しかしながら、人の過ちは、神がこれを償って下さいます。そして神は、本多君を送って、外国宣教師のこの過ちを償われたのです。
本多君は、政治界を去り、キリスト教界に入り、君の平和の特性によって、教派分立の害を除こうとして努められたのです。そしてこの尊ぶべき事業において、君はある程度まで成功されたのです。
私はかつて、松村介石(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9D%91%E4%BB%8B%E7%9F%B3 )君と話したことがあります。もし私共日本国初代のキリスト信者が、何かの事情に強いられてメキシコかブラジルに移住したと仮定し、そして周囲の境遇に余儀なくされて、相互の間に共和国を建設しなければならないようになったなら、
私達はその時、私達の中から誰を選んで大統領にするであろうかという私の問いに答えて、松村君は例の調子で答えて言いました。「それは本多さ、本多さ」と。
そしてその事について、私はもちろん松村君に同意せざるを得ませんでした。メソジスト三派が合同して、一教会となった時に、その最初の監督が本多君であるべきことは、実に先決問題でした。
そしてもしさらに進んで、日本の諸教会がその理想通りに一団体となる時には、その最初の大監督が、本多君であるべき事は、これまた先決問題です。本多君は、特に平和(やわらぎ)の精神をもたらして、私達の間に在った者であり、君は実に私達をつなぐ平和の綱でした。
そして最初の十二使徒の間に在って、本多君が日本初代のキリスト信者の間に在ってとられた職務をとった者は誰であったかという問題に対して、私はその使徒の名を指して答えることはできません。
しかしながら、これはペテロが為した事でない事は確かです。彼は、この任に当るには、あまりに感情的でした。彼は使徒等の先鋒として適任者でした。しかし、その統治者としては不適任であったと思います。
それでは愛を説いたヨハネこそ、よくこの任に耐えたかと言うと、私はそうではないと思います。雷(かみなり)の子と呼ばれ、烈火のような黙示録を書いた彼は、いわゆる平和の人ではなくて、激烈の人であったのです。
彼もまた、各自その主張を守って動かなかった十二使徒の統一者であるには不適任の人であったろうと思います。
パウロは遊軍の将でした。彼は座して他人の平和を計るような人物ではありませんでした。彼は、福音のチャンピオンでした。特に戦闘場裏において光彩を放つ人でした。
それではイエスの昇天の後に、誰が使徒等の平和統一を計ったのでしょうか。その事について新約聖書は明らかに私共に示していません。従って私は、本多君の相方(カウンターパート)を使徒たちの中に見つけるのに苦しむのです。
先日の井深君の演説の中に、本多君は武士的クリスチャンであったという言葉がありました。その事から思い起こして、私は本多君はバルトロマイと呼ばれたナタナエルではなかったかと思いました。
イエスは初めて彼を御覧になった時に、「
視よ、真(まこと)のイスラエルの人にして、其心詭譎(いつわり)なき者ぞ」(ヨハネ伝1章47節)と言われました。
本多君もまた、ナタナエルのように、「真の日本人にしてその心に詭譎のない者」でした。君はキリストの弟子となる前に、真の日本武士だったのです。その点において本多君を日本キリスト教界のナタナエルと言うことができると思います。
しかしながら、残念ながら、私共はナタナエルについて、これ以上を知らないのです。彼が果して使徒たちの間に在って、本多君が日本初代のキリスト信者の間に在って為されたような事を為したかどうかは、聖書は私達に告げないのです。
今、聖書が告げるところによれば、使徒たちの間に立って、よく彼等の衝突を避け、その和合を計り、共同を促した者は、「主の兄弟」と呼ばれた使徒ヤコブであったことを見るのです。
彼は十二使徒の一人ではありませんでしたが、しかし、彼はその一人として崇められ、彼等の長者として尊ばれたのです。そしてこの人がエルサレムに在って使徒の間の調和を計り、初代の信者の統一を促したことは、使徒行伝が示しています。
私は今ここに、ヤコブ書に示された精神信仰と本多君のそれとの比較について述べたいのですが、しかし、そのための時間はありません。両者共に保守的信仰の人であったこと、実際的であって弁論的ではなかったこと、等しく常識に富んでいたこと、
ヤコブがナタナエルのように、真のイスラエルの人であったように、本多君もまた真の日本武士であったこと、これ等は注意すべき要点です。私は、本多君を日本初代のキリスト信者中の使徒ヤコブと称しても、多く間違いはないと思います。
しかしながら、これは私の自説に過ぎません。諸君はこれを採用するに及びません。歴史上の比較は、どうでも宜しいのです。私共は、事実を明らかにすれば、それで事は足りるのです。
本多君は、平和の人でした。「やわらぎ」の人でした。その事は明らかです。そして君は、日本国にキリスト教が有る限り、(そして日本国にキリスト教が無くなる時は決してありません)、君は日本国の平和の使徒として記憶されるのであろうと思います。
ゆえに、もし本多君の御遺族から私に、君の墓石の上に刻むべき聖書の言葉を選べとの御依頼があれば、私はマタイ伝5章9節を選びます。即ち、「
和平(やわらぎ)を求むる者は福(さいわ)ひなり。其人は神の子と称へらるべければ也」です。
私は、本多君の特性は、この言葉で尽きていると思います。君は和平(やわらぎ)を以て偉大であったのです。そしてキリスト信者の立場から見て、和平の偉大は、神学の偉大、策略の偉大、雄弁の偉大よりも、遥かに偉大なのです。
Bishop Honda the Peacemaker 君はこの名を以て、永く私達の間に知られるのであろうと思います。そして君の霊は、今や争いのこの世を去って、平和の主と共に在るのです。君はもはや、メソジスト教会の監督ではありません。
君は今は、「
シオンの山、又活ける神の城なるエルサレム 又千万の衆、即ち天使の聚集(あつまり) 天に録(しる)されたる長子等の教会、 又すべての人を裁く神、及び完成(まっとう)せられたる義人の霊魂(たましい)」(ヘブル書12章22、23節)の一つと成られたのです。
四十有余の教派を一致させようとするような有り難くない仕事は、今は君に有りません。君は今は平和の中に在って、争闘や不和とは何であるかさえ忘れようとされつつあります。
君の平和の業は、終りました。しかしながら、私共後に残った者の平和の業は終りません。そして私共がもし真に本多君を愛し、君を尊敬するならば、君の平和の精神を受けて、兄弟相互に和らぐべきです。そして本多君は、肉において死んで霊において
より強く私共のこの和らぎを助けて下さると思います。
今より後の本多君は、平和の霊を以て私共の間に臨み、永久にキリストの愛を以て、私共の心を結びつけて下さるのであると思います。
完