全集第21巻P72〜
(「ヨハネ伝は何を教えるか」No.2)
3.ヨハネ伝の教訓 必ずしも愛一方の書ではない
ヨハネ伝が誰の著作であるかは分からない。しかしながら、それが何を教える書であるかは明白である。これは学者の説明を待たずに、誰にも分かることである。
著者と時代との問題は、後回しにして宜しい。私達が先ず第一に求めるべきは、ヨハネ伝が明らかに伝えている教訓である。ヨハネ伝は、いかなる大真理を私達に伝えようとしているか、私達は先ず第一に、この仕事に取りかかるべきである。
ヨハネ伝は何を教えるかとの問いに対して、普通与えられる答は、「神は愛なりと教える」というものである。
使徒パウロは厳しい人であって、人の救済(すくい)を信仰において求めたのに反して、使徒ヨハネは優しい人であって、特に神と人との愛を説いたとは、私達が普通に聞かされていることである。
しかし、事実は決してそうではないのである。使徒パウロも愛を説き、使徒ヨハネも信仰を説いたのである。パウロが説いた神は、ヨハネが説いた神に劣らず優しい神である。
「
頌美(ほむ)べきかな我等の神、即ち我等の主イエス・キリストの父、慈悲の父、すべての安慰(なぐさめ)を賜ふの神」(コリント後書1章3節)とパウロは言っている。これは、「神は愛なり」と言うよりもさらに優しい神を紹介する言葉である。
コリント前書13章が愛の讃美歌であり、ルカ伝第15章における放蕩児(ほうとうむすこ)のたとえ話が、愛の神を伝えるものであることは、誰もがよく知っている。
「神は愛なり」という
言葉はヨハネ書簡(ヨハネ伝ではない)においてだけ見ることが出来るが、「神は愛なり」との
事実は、新約聖書全体が伝える事である。
それだけではない。パウロが信仰を高調したのに対して、ヨハネは愛を力説したと言うのもまた大きな間違いである。
信はヨハネ伝における最も顕著な言葉である。
「
彼を受け、其名を信ぜし者は、権能(ちから)を賜ひて此れを神の子と為せり」とその始めにある(1章12節)
(新共同訳では、「言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」)。
そしてその終りに当って、それが著された目的を述べて、言っている。「
此書を録(しる)せるは、汝等をしてイエスの神の子にしてキリストなる事を信ぜしめ、之を信じ其名に由りて生命(いのち)を得させんが為めなり」と(20章31節)。
即ちヨハネ伝は
信を以て始まり、
信を以て終っている。それが記しているイエスの奇跡なるものはすべて、人に
信を起させるためであった。もし
信という文字が使用された度数から言うならば、ヨハネ伝こそ特に信仰の書と称えられるべきである。
そしてヨハネ書において、「
我等をして世に勝たしむる者は、我等が信なり」(ヨハネ第一書5章4節)と言っており、著者が決して信仰を軽んじた人でないことが分かるのである。
パウロは信仰の使徒であって、ヨハネは愛の使徒であったと言うのは、パウロ、ヨハネの両方を誤解することから起こる言葉であると思う。
そしてヨハネ伝が決して優しい愛を説く書でないことは、これを一読してみれば明らかである。ヨハネ伝が伝えるイエスの伝道が、いわゆる「聖殿(みや)の洗清(きよめ)」を以て始まっていることは、注意すべき事実である。
イエス、エルサレムに上り、聖殿(みや)にて牛、羊、鳩を売る者と、両替
(りょうがえ)する者の坐せるを見、縄をもて鞭を作り、彼等及び羊牛を聖
殿より逐出(おいいだ)し、両替する者の金を散らし、其案(だい)を倒し、
鳩を売る者に言ひけるは、此れを取りて往け、我が父の家を商売(あきない)
の家となす勿れと。
(2章13〜16節)
これは決して優しいイエスを伝える言葉ではない。恐るべきイエスを伝えるものである。実にヨハネ伝全体にわたって伝えられるイエスは、最も威権ある厳格な人である。
「
彼れ涕(なみだ)を流し給へり」という文字はあるが、彼がユダヤ人の不信を憤られた言葉は、ほとんど全篇にわたって充ち満ちていると言うことが出来る。
実にヨハネ伝は、救主としてのイエスと同時に、審判主(さばきぬし)としての彼を伝える書である。これは、黙示録と相合せて読むべき書である。火と煙と、その中に輝く愛の慈光とを伝える書である。
(以上、9月10日)
ヨハネ伝は、二つあるいは三つの大切な事を教える。その第一は、
神の子の自顕(じげん)である。その第二は、世のこれに対する態度である。
そして神の子の自顕に対する態度に二つある。その第一が
不信である。その第二が
信仰である。ゆえにヨハネ伝全体は、三つの大切な事を教えると言うことが出来る。
即ち、
第一、神の子の自顕
第二、不信とその結果
第三、信仰とその結果
その冒頭から末尾に至るまで、ヨハネ伝はこの三つの重要な事について教えるのであると思う。
以上のヨハネ伝三大教旨(きょうし)とも称すべきものは、これを
冒頭の序文において見ることが出来る。その第1節から第14節までにおいて、著者は全篇の要略を掲げているのである。
(一)神の子は初めに宇宙の原理(道(ロゴス))であった。彼は神と共に在って、素(もと)より神であった。彼はすべての人を照らす真の光であった。彼は肉体を取って人類の間に宿った。彼には実に聖父のお生みになった一子(ひとりご)の栄光(さかえ)が輝いていた。
(二)ところが世は光を認めなかった。彼は御自分の国に来られたのに、その民は彼を受け入れなかった。
(三)しかし、世のすべてが彼を斥けたのではない。世には彼を信じて受け入れる少数の者があった。そしてそのような者には、神は権能(ちから)をお与えになって、これを御自分の子とされたと。
以上が第1章1節から14節に至るまでのヨハネ伝序文の大意である。序文と言うよりは、むしろ摘要である。全篇の縮写である。ヨハネ伝が教えているのはこれである。
イエスが何者であるか、彼は世に在って何を為されたか、世はどのように彼をあしらったか、不信の世に少数の信者がいたこと、これが、ヨハネ伝が特に教えようと思う事である。
著者は末尾に、さらに明白にこの書の目的を示して言っている。「
此書を録(しる)せるは、汝等をしてイエスの神の子キリストなる事を信ぜしめ、之を信じ其名に由りて生命(いのち)を得させんが為なり」(20章31節)と。
このようにして、ヨハネ伝が教えようとする事は簡単である。しかしながら、簡単であると同時に深大である。
イエスは
人の子ではない。
神の子であると言う。神が肉体を取って、人の間に宿った者であると言う。宇宙は彼によって造られ、万物は彼の命に服したと言う。事実か、奇談か、歴史か、物語か。
もし事実であり、歴史であるとすれば、全宇宙にこれよりも重大な問題はないのである。神は果して人と成って世に降られたか、イエスは果して神の子キリストであるか、問題中の問題、全宇宙の最大問題はこれである。
ところがヨハネ伝は、この問題を捕らえて来て、簡単に、明白に、大胆に、確信をもって語るのである。ヨハネ伝が崇高な書であるのは、その題目が崇高だからである。
神の子とその栄光とについて語ったこの書が、その末尾において、次の一言を載せているのは、敢えて怪しむに足りないのである。「
イエスの為しゝ事は、此等の外に尚ほ許多(あまた)あり。若し之を一々録(しる)しなば、其書(ふみ)此世に載尽(のせつく)すこと能(あた)はじと思ふ」と。
これは如何なる
人についても言うことの出来ない言葉である。如何なる英雄も、如何なる聖人も、「此世に載尽すこと能(あた)はず」と思われる事績を残した者はない。
宇宙でただ一人、神の子だけに、ヨハネ伝著者のこの終りの一言を、そのまま、その生涯の事績に適用しても、誇大な言葉とは見做されないのである。
そして、神の子に対する人類の態度、これもまた大問題である。人類は正義を貴ぶと言うが、果してそうであるか。人類は、正義の実現者である神の子の出現に遭って、これに対してどのような態度に出たか。
奉迎か、排斥か、問題は単にイエス対当時のユダヤ人のそれではない。
神対人類のそれである。人類全体に関わる問題である。
もしシェークスピアの劇詩(ドラマ)がよく人情を穿(うが)つから世界的大著作であると言うならば、ヨハネ伝はよく人類の本然性を穿っているので、宇宙的大著述であると言うことが出来る。
罪の定まる所以(ゆえん)は是れなり。光、世に臨(きた)りしに人(人類)は
光を愛せずして反(かえり)て暗(くらき)を愛したり。是れ其行為(おこな
い)の悪しきに由る (3章19節)
と。人類の本然性は明らかにされ、その罪は断定されたのである。人は生まれながらにして神の味方ではない。その敵である。人の性は悪であると言うに止まらない。預言者エレミヤの言葉で言えば、「
絶対的に悪」(エレミヤ記17章9節)である。
ヨハネ伝は、神の子の自顕(じげん)について語って、神の性を明らかにすると同時に、神の子に対する人類の態度について述べて、人の性を明らかにする。ゆえにこの書は、高遠窮まりない書であると同時に、また深遠量るべからざる書である。
神をその高い愛において示し、人をその深い罪において表す書である。その著者が誰であるかを問わず、その歴史的価値の程度を問わず、ヨハネ伝が広遠絶大な書であることは、敬虔にこの書を研究する者の誰もが、疑おうとしても疑えないところである。
ヨハネ伝の二大要目は、
神の子の自顕とこれに対する
世の態度とである。
そして自顕は一時に行われなかった。徐々に、順序的に行われた。これに発展的進歩があった。イエスは順序的にその権能(ちから)と恩恵(めぐみ)とを世に顕(あらわ)された。そして自顕の程度に従って、これに対する世の態度にもまた変化があった。
イエスが自己(おのれ)を顕されればされるほど、世の彼に対する反対(不信)は激烈になった。また少数の彼に対する欣慕(きんぼ)(信仰)は深厚(しんこう)になった。
あたかも太陽がそのあたたまりを放てば放つほど、固くなるべき粘土(ねなつち)はますます固くなり、柔らかになるべき蜜蝋(ろう)はますます柔らかくなるのと同じである。
神の子の自顕は、単に自顕として止まらなかった。必ずこれに対する相当の世の反応があった。闇は光の前に消散しなかった。その反対が事実であった。光が増せば増すほど、闇はますます暗くなった。
真理の出現は、罪のこの世に在っては、必ずこの結果を生じるのである。そしてこの事を最も明白に示したものが、ヨハネ伝である。
(以下次回に続く)