全集第21巻P83〜
(「ヨハネ伝は何を教えるか」No.4)
(「3.ヨハネ伝の教訓」No.3)
イエスは既に二回エルサレムにおいて自己を国人に顕された。そしてその二回とも、自顕はその効を奏さなかった。ユダヤに信仰は起こらなかった。その反対に、国民全体は反対の態度に立った。既に彼を殺そうとする兆候さえ現れた。神の子は善事を選民の間に行って、反って選民に嫌われたのである。
そこでイエスは、再び聖都を去って、僻陬(へきすう)のガリラヤに退かれた。そして民の間に働いて、彼等の間に真の信仰を起そうとされた。彼もまた都会伝道に失望して、田舎伝道に転じられたのである。
彼は思われたのである。都会人士は、彼等が受けた教化のために、反って彼を受けることが出来ない。教法師の感化から遠く離れた質朴(しつぼく
:誠実でかざりけがない)な田舎人士こそ、反って信仰を起すであろうと。神の子もまた人と成られた以上、私達人間と同じく失敗によって知恵を学ばれるのである。
時は逾越節(すぎこしのいわい)に近く、所はテベリヤの湖の対岸である。ヘルモンの頂が湖水の面に映り、草は青くて天然の絨毯(じゅうたん)で野を敷き詰めた所に、数多のガリラヤ人はイエスの許へと集まって来た。
この群衆を御覧になった彼は、ここにまた、彼等の前に神の栄光を顕さざるを得なかった。彼はここに逾越節(すぎこしのいわい)の筵(むしろ)を設けられた。大麦のパン五つと小さな魚二つとで、そこに集まった五千の群衆をもてなされて、彼等を飽き足らせられた。
事は大きな奇跡である。神の子を待って、始めて見ることの出来る奇跡である。全く彼の愛から出た奇跡であって、敢えて群衆の驚愕を呼び起こすためではなかった。
イエスはここに自己の生命がパンであることを彼等に示そうとして、この不思議な業を行われたのである(第6章)。
ところがその結果はどうか。質朴なガリラヤ湖畔の民は、イエスのこの奇跡の訓示(おしえ)を受けたか。彼等は、彼等に与えられた朽ちるパンが、朽ちないパンの表号(しるし)であることを悟ったか。
いや、彼等もまた、霊感の鈍い、肉の子供であった。彼等はイエスを捕らえて、彼等の王にしようとした(15節)。彼を霊魂の救主として迎えずに、パンの供給者として戴こうとした(26節)。
彼等は、ユダヤ人のように、彼に対して反対を表さなかった。しかしながら、全く彼の天職を誤解して、大きな慈善家として彼を迎えようとした。この状態を見て、イエスは非常に歎かれた。
イエス答へて曰ひけるは、誠(まこと)に実(まこと)に汝等に告げん。汝等
の我を尋ぬるは、休徴(しるし)を見し故に非ず。唯パンを食して飽きたる
が故なり。汝等朽る糧(かて)のために労(はたら)かずして、永生に至る糧、
即ち人の子の与ふる糧のために労(はたら)くべし。 (26、27節)
と言われて、彼の失望の意を表された。
教会が求めるものは教権、社会の求めるものはパン、宗教家でなければ政治家、都会人士も田舎人士も、その求めるものは多く異ならないのである。
真の福音を求めず、神の人を迎えない点において、都会も田舎も同一である。都会に激烈な反対があり、田舎に際立った反対がないのを見て、田舎は都会に優って伝道的に有望であると言うことは出来ない。ただ両者の趣味が違うまでである。
人の誉れを貴び、霊の糧を軽んじて、肉の糧を重んじる点において、田舎は都会と少しも異ならないのである。そして崇めるべきイエスもまた、彼の実験によってこの悲しむべき事実を発見されたのである。
彼はエルサレムの市民に失望されたのと同じく、ガリラヤの農夫と漁夫とに失望されたのである。彼はガリラヤ湖畔において、パンと魚との増殖の奇跡を行って、さらに人の子等が根本的に神から離れた者であることを覚られたのである。
こうしてイエスの第三回の自顕によって、世の彼に対する態度は、ますます明らかになったのである。
都会に在っては冷遇でなければ反対、地方に在っては、肉欲的歓迎、いずれも彼の心を傷めるだけで、彼に満足を与えなかった。彼はこの時既に、人の子となって天から降って来た神の子に、地上に枕する所がないことを、深く感じられたであろう。
今やガリラヤの田舎もまた、信仰興起の所として望みを嘱(しょく)するに足りなかった。それならどうしようか。
民は悉くエホバを捨て去り、その霊は鈍って、光の降臨もこれを覚ますに足らないなら、今からは更に三度、あるいは四度、エルサレムに上って、そこで語るべきことを語り、顕すべきことを顕し、
そして終に地から挙げられ、万民を引いて自己に来らせようとは(12章32節)、おそらくこの時におけるイエスの覚悟であったであろう。
(以上、10月10日)
イエスは既に三回、自己を世に顕(あらわ)された。聖殿を清めることによって、彼の正義を顕された。病者を癒すことによって、彼の仁慈(めぐみ)を顕された。そして群衆を養うことによって、彼が生命に至る真のパン(糧)であることを顕された。
そして自顕の結果は、常に多数の反対と少数の信仰とであった。イエスは彼の善行によって、ますます世の反対を招くと同時に、少数の信者の信仰を強められた。
イエスは人の霊魂を養う真のパンである。彼はまた、すべての人を照らす真の光である。彼は、今は
人の光として自己を顕すべき時にあった。
イエスは三たびエルサレムに上られた。時はユダヤ人の構蘆節(かりずまいのいわい)であった。彼がその市街を歩いておられる時に、一人の盲目の乞食を御覧になった。「
イエス行く時生れつきなる瞽目(めしい)を見しが」(9章1節)とある。
「見しが」とは、「見つめしが」という意味である。彼は特別の注意を払われたという意味である。彼は選民の中に、この時彼の恩恵を受け入れることが出来る一つの器を発見されたのである。
そしてその人は、祭司でもなく、民の宰(つかさ)でもなく、生れつきの盲人であって、乞食であったとのことである。
実に神は、人を偏り見る者ではないのである。前には異邦の婦人に、しかも淫婦に、自己を顕された彼は、今はここに盲人である乞食に大きな能力(ちから)を以て顕れられた。
簡単な方法と一言の命令とによって、盲人の眼は開かれた(6、7節)。ここにまた大きな奇跡は行われて、イエスは更にその栄えを顕されたのである。
そしてその結果は、前と同然であった。信仰はますます進み、反対はますますその激烈の度を加えたのである。
眼を開かれた乞食は、始めにイエスを預言者の一人として解したが(17節)、ユダヤ人の詰問と迫害とにより、イエスに関する彼の思いはますます明らかにされた。
そして彼は、彼の信仰のゆえに、ユダヤ教会に追われると、彼は終に「
主よ我れ信ずと曰ひて彼を拝せり」とあり、彼は
イエスを拝すべき神の子として信じるようになった(38節)。
そして信じた乞食の信仰の進歩に伴って、ユダヤ人の不信の発展もまた著明になった。ユダヤ教会の役員達は、今やイエスを躊躇せずに「罪人」と呼んだ(24節)。イエスはこれで既に二回安息日を破って、モーセの律法を犯したのである。
先には安息日に38年病んでいた者を癒し、今はまた同じく安息日に、生れつきの盲人の眼を開かれた。彼の罪は赦すべからずである。「
彼等イエスを執(とら)へんとしたりしが、彼れ其手を脱(のが)れて去れり」とあって、ここにユダヤ人の反対は、公然と彼に手を下すに至った。
しかし、イエスは恐れなかった。彼は今は彼の善行によって、彼の国人を済度(さいど)することが出来ないことを覚られた。だからと言って、彼は彼の内に在るすべてを世に顕さずにはおられなかった。
彼は最後に彼の最善を世に顕された。そしてその結果として、彼は彼の生命(いのち)を捨てるに至った。
そしてそのような機会は、彼の友人であるベタニヤのラザロの死によって備えられた(ヨハネ伝11章)。イエスはラザロの姉妹から「
主の愛する者病めり」との報知を受けた時に、ここに最後の顕栄(けんえい)の機会が、彼に与えられたことを知覚された。
「
イエス之を聞きて曰ひけるは、此(こ)は死ぬる病(やまい)に非ず。神の栄のためなり。神の子をして之に由りて栄を得しめんが為なり」(4節)とある。
そしてこれが彼に取って大きな危険の伴う機会であったことは、彼も、また彼の弟子もよく知っていた。
ゆえに弟子が引き留めたにもかかわらず、強いてベタニヤに行こうとされると、弟子の一人であるトマスは言った、「
我等も亦往きて彼(イエス)と共に死すべし」(16節)と。イエスはその時死を決して、ベタニヤに往かれたのである。
先にはガリラヤのカナにおいて、婚筵(こんえん)の席において水をブドウ酒に化して彼の栄を顕されたイエスは、今ここにエルサレムに近いベタニヤにおいて、友人を死から甦(よみがえ)らせて、彼が神の子であることの最大の証拠を示された。
カナの奇跡から始まり、ベタニヤの奇跡で終わった。始めに万物の造主として自己を顕され、終りに生命の主としてその大能を示された。
「
我は復活なり生命なり」(25節)と。ラザロの復活の意味は、ここに在ったのである。
万物の造主であった彼(カナの奇跡の意味)、神の正義の体得者であった彼(宮清めの意味)、神の慈愛の実現者であった彼(病者治癒の意味)、生命のパンであった彼(群衆給養の意味)、世の光であった彼(盲人開眼の意味)は、
すべての生命の源であって、永遠に生きるので、永遠に生きる能力(ちから)を人に与える者であるということが、ここに明らかに示されたのである。
ベタニヤにおける死者の復活は、イエスが行われた最大の奇跡であった。イエスはこれ以上に自己を世に顕すことは出来なかった。人はまたこれ以上の神の啓示を要求しない。
死者は死んでも死なない。イエスを信じることによって、死から甦って永遠に生きることが出来ると示されて、人が神について知りたいと思う全てが彼に示されたのである。
(以下次回に続く)