全集第21巻P88〜
(「ヨハネ伝は何を教えるか」No.5)
(「3.ヨハネ伝の教訓」No.4)
ラザロの復活はもちろん、友人の死を悲しむ情から出たラザロ一人のための復活ではなかった。一時死を免れるのは、大きな恩恵であるに相違ないが、しかし、最大の恩恵でないことは明らかである。
イエスはラザロを甦らせて、彼ラザロと、彼の二人の姉妹であるマルタとマリアと、彼に従った彼の弟子等と、ここに集まった多くのユダヤ人と、そして
彼等を通して全世界の人々に、彼イエスに復活の能力(ちから)と永遠の生命とがあることを示すために、この奇跡を行われたのである。
即ち、この奇跡もまた、他の奇跡と等しく、単に不思議な事(わざ)ではなくて、意味のある休徴(しるし)である。イエスはラザロを甦らせて、彼が末日(おわりのひ)に
すべて彼を信じる者を甦らせる、その能力(ちから)と事実とを示されたのである。
「
凡(すべ)て我を信ずる者は、永遠(いつまで)も死(しぬ)ることなし」(26節)と、これがこの奇跡によって行われた大説教の主題であった。
そしてこの啓示に接して、ユダヤ人の反対は、その絶頂に達したのである。
是に於て祭司長等とパリサイの人等会議を開き曰ひけるは、我等如何(い
か)にすべき乎。此人多くの奇跡(ふしぎ)を行へり。若し彼を此儘(このま
ま)棄置(すておか)ば、人皆な彼を信ずるに至らん……此日よりして彼等イ
エスを殺さんと共に議(はか)る。 (47〜53節)
こうして神の子の自顕(じげん)がその極に達した時に、世の彼に対する憎悪もまた、その極に達したのである。
イエスに在っては、ラザロの死は、彼の最大最高の能力(ちから)を顕す機会となったが、彼の敵に在っては、これが彼を殺す機会となったのである。
ベタニヤの奇跡は、ゴルゴタの悲劇と相関連して解すべき者である。前者は後者の直接の原因となったのである。イエスは彼の友人を甦らせた事が原因で、祭司パリサイの人等に捕らえられ、終に彼等に殺されたのである。
これは不思議と言えば不思議である。しかし、神が何であるかと、世人(ひと)が何であるかを知れば、この事は決して不思議ではないのである。
正義は最後の勝利者であると言うが、しかし正義は、世論の賛成を得るから最後の勝利者なのだと言うのではない。世人の世論は、常に正義に背き、不義に与(くみ)するのである。
もしイエスとバラバとのいずれを選ぶかと問われるならば、世論は常に「
此人に非ずバラバを釈(ゆる)せ」(18章40節)と叫ぶのである。
そして「
バラバは盗賊(ぬすびと)なる也」とある。神に背いたこの世の人は、むしろ盗賊を許しても、神の子は、これを許さないのである。
イエスの名は、信者にとっては神と等しい名である。しかし不信者にとっては、国賊、親不孝、すべての悪事を総合した名称である。私達は今日この国においても、この事が事実であることを知っている。
このようにしてイエスは、前後五回にわたって、自己を世に示された。そしてその結果は、世人全体の反対と、少数の信者の敬仰とであった。彼の自顕は、彼に死をもたらした。ヨハネ伝記者は、この事を書き終って、自己の観察を述べて言った。
イエス彼等(世人、殊にユダヤ教会の役員と信者等)の前に斯く多くの休徴
(しるし)(深い意味を含んだ奇跡)を行ひ給へり。然れども彼等は尚ほ彼を
信ぜざりき。
是れ預言者イザヤが曰ひし言に「我等の告げし言(こと)を信ぜし者は誰ぞ
や。主の手は誰に顕はれし乎」とあるに応(かな)へり。イザヤは復(ま
た)曰へり「彼等目にて見、心にて悟り、改めて医(いや)さるゝことを得
ざらんが為めに、彼れ(神)その目を瞽(くら)くし、其心を頑硬(かたくな)
にせり」と。
此故に彼等は信ずること能(あた)はざりし也。イザヤは彼(イエス)の栄を
(予め)見しにより、彼に就て斯く語りしなり。
然れど有司(つかさ)等(政治家、宗教家、いわゆる上流社会の人等)の中に
多く彼を信ぜし者ありしかども、彼等はパリサイの人(教権を有する宗教
家)を恐れて、明(あらわ)に彼を信ずと言はざりき。
其会堂より斥けられんことを恐れたるに因りてなり。是れ等の人々は、
神の栄誉(ほまれ)よりも人の栄誉を喜べるに因るなり。
(12章37〜43節)
貴いイエスの33年のこの世の御生涯は、ヨハネ伝記者のこの言葉によって尽きているのである。
大多数の反対、極めて少数の信仰、有司等の中に信者は起こらなかったわけではないが、人を恐れて密かに彼を信じたに過ぎない。彼を信じて憚ることなく彼を世に紹介した者は、異邦の婦人、しかも堕落婦人でなければ、盲目の乞食等であった。
この世の政治家宗教家等は、ごく少数を除いては、挙(こぞ)って彼に反対し、罪人として彼を政府に訴え、彼を絶滅せずには止まなかった。ヨハネ伝が明白に私達に伝えていることは、この事である。
この書が一種の
寂しさを帯びている事は、誰もが認める事である。「
光は暗(くらき)に照り、暗は之を暁(さと)らざりき」、「
彼れ己れの国に来りしに其民之を接(う)けざりき」、「
茲に於て人々彼を撃んと石を取れり」、
「
此日よりして彼等イエスを殺さんとて共に議(はか)る」、「
世もし汝等を悪(にく)む時は、汝等よりも先に我を悪むと知れ」云々。
ヨハネ伝が記しているイエスの生涯は、決して幸福な生涯、成功の生涯、名誉の生涯でなかったことは、何よりも明らかである。
イエス対この世は、乖離、衝突、決闘に終った。そして勝った者はもちろんこの世であって、負けた者はもちろんイエスであった。
イエスの一生の顕栄と伝道とによって彼が得た者は、わずかに十二人であった。その他に少数の信者はいたが、これは彼の福音を委ねるに足りる者ではなかった。
そして十二人は、悉く真の信者ではなかった。その中の一人は悪魔であった(第6章70節)。第13章以下17章に至るまでは、イエスがこの小さな信者の一群を教えかつ慰められた記事である。
「
逾越節(すぎこしのいわい)の前にイエス此世を去りて父に帰るべき時到れるを知り、世に在りて己の民(弟子を指して言う)を愛したれば、終りまで之を愛せり」(13章1節)とある。
十二人は少数である(しかもその中の一人は悪魔である)。ところがこの少数者こそ彼の一生の労働(はたらき)によって収穫された者であり、ゆえに彼にとっては目の瞳(ひとみ)のように貴かった。
ゆえに彼が今や彼等と相分れようとするに当って、彼等を教え慰める言葉は、慇懃(いんぎん)を極めた。人の言葉で書かれた言葉の中に、ヨハネ伝第13章以下の、イエスの弟子に対する離別の言葉よりも凱切な
(ぴったり当てはまる)ものはない。ここに愛の生粋(きっすい)がある。
イエスは、彼を信じないユダヤ人に向っては謎を以て語り、たとえを以て諭されたが、彼を信じる弟子に向っては、明白(あらわ)に事実そのままを語られた。
この様を見て取った弟子の一人は、彼に言った、「
汝今明かに言ひ給ふ。譬喩(たとえ)を言ひ給はず」(16章29節)と。
私達は13章以前において、イエスがこの世に対して取られた態度を見、13章以下において彼が彼の愛する弟子に対して取られた態度を見るのである。
世に対しては、雲霧のように補足し難いところがある。しかし弟子に対しては、日光が明白であるように明白である。誠実は不信に対してその実体を示すことは出来ない。ただ信仰に対してだけ、赤裸々な真実を示すのである。
そしてイエスは、彼の真実を顕(あらわ)されるのに先立って、最後の清洗を行われた。悪魔のユダは、弟子の仲間を去ろうとしていた。彼がその中に居ては、イエスは自己の真実を顕せなかった。
不信の前に誠実は冷却せざるを得ない。不信は、信仰発展の大きな妨害である。ユダが去らない限りは、イエスは弟子たちに向って、彼の最善最美を語り得なかった。
「
彼(ユダ)は一つかみの食物を受けて直に出行けり。時は既に夜なりき。彼の出し後に、イエス曰ひけるは、今、人の子栄を受く云々」(13章30、31節)と。
世はイエスを棄て、イエス御自身は今世の最後の分子を彼の身辺から斥けられて、彼は生れて始めて、ここに神と神を愛する者だけと立たれたのである。
広い世界に、自己を合せてわずかに十二人、これが当時のイエスの仲間である。地上の天国である。世のパンだねを混ぜていない、たね入れぬパンである。神の子の降世と彼の三十三年の貧しい生涯とは、この小さな群れを作るためであった。
何と貴いものであろう、神の教会は。教会とは、そのような者である。そのようにして作り、そのようにして成立するものである。私達であっても、そのような意味においての教会は、これを排斥しない。
そしてこの小さな羊の群れを率いて、イエスはこの世と最後の衝突を為されたのである。ヨハネ伝第18章以下は、イエス対この世の最後の決戦を記したものである。
暗黒は、政権と教権と背信者の道案内を得て、光明に向って攻め寄せた。光明軍中に大きな動揺があった。兵卒は、その君主を一人残してみな逃げ去った。(憐れむべき弱卒よ)。
しかし、救いの主は独り立ってますます強かった。彼は一人、敵の強塁を冒(おか)し、その拠って立つ基礎を粉砕した。しかし彼自身は、敵鋒(てきほう
:敵のほこさき)の滴(しずく)となって消えた。
世人の眼から見て、戦闘は全く神の子の敗北で終った。暗黒軍は凱歌(がいか)を揚げて喜んだ。彼等は、彼の屍をアリマタヤのヨセフの墓に葬った。彼等は思ったであろう、「我等はかくてナザレ人の狂的福音を封じ込めた。今や我等に永久の平和が来た」と。
ところが見よ、一婦人がイエスの復活を告げた。逃げ去った彼の弟子たちは、再びエルサレムに帰って来た。ここにこの世の理論では、とうてい解くことの出来ない、不思議な大運動が始まった。
そして五十年を経ないうちに、イエスを殺した者は悉く亡ぼされ、殺されたが、イエスの福音は、全地に宣伝されるに至った。イエスの生涯は失敗に終わった。しかし、その終極は、死ではなくて、死の反対の生であった。
イエスは世に棄てられた。しかしイエスは、世を棄てずに、徐々にこれを自己に収められつつある。現世にあっては大失敗、後世に在っては大成功。世に憎まれて世に勝つ。これがヨハネ伝が私達に教えるイエスの生涯の貴い教訓である。
何と偉大であろうか、ヨハネ伝! しかし、現今のキリスト教会はどうか? 現今のキリスト教青年会はどうか? イエスのように世に憎まれずに、反って世に歓迎されることを求め、かつこれを喜び、かつこれを誇りとする。
イエスは彼の一生の間に、十一人の信者を得られたに過ぎないのに、現今の教会と青年会とは、一回の説教会に何十百人の信者を得たと言って喜ぶ。
イエスは有司の中に一人も公的信者を有しなかったが、現今のいわゆるキリスト信者等は、公爵、伯爵の賛成と援助とがあれば、天地の賛同を得たかのように喜ぶ。
実に貴ぶべきはヨハネ伝が伝えるイエスである。実に卑しむべきは、現代の教会の監督と、牧師と、伝道師である。彼等は聖書を学び、ヨハネ伝を称賛しながら、その明白な教訓に背きつつあるのである。
私はここに、新たにヨハネ伝を彼等に薦(すす)めて、彼等の改悛を促さざるを得ない。
私はそのように言って、自身彼等を呪うのではないと信じる。
ある他の者が私の背後に立って、この事を彼等に言わせるのであると信じる。
(以上、12月10日)
完