全集第21巻P115〜
贖罪と復活
これは「キリスト教とは何か」との題目の下に、キリスト教夏期学校で行なった
講演の草稿である。
大正3年11月10日
イエスは我等が罪のために附(わた)され、又我等が義のために(「義とせ
られんが為め」ではない)甦(よみがえ)らされたり。 (ロマ書4章25節)
パウロが残した言葉の中に、一言でキリスト教のすべてを言い尽したものは少なくない。ロマ書のこの一節などは、確かにその一つである。よくこの一節を解した者が、キリスト教を解し得た者であると思う。
イエスはその敵人の手に渡され、彼等に殺された。その事は、明白な歴史的事実である。しかし彼は、御自分の罪のためにこの屈辱を味わわれたのではない。彼は私達のために、特に私達彼を信じる者のために、この苦い杯を飲み干されたのである。
実に彼は、私達の愆(とが)のために傷つけられ、私達の不義のために砕かれたのである(イザヤ書53章5節)。神はイエスに在って、私達の罪を罰し、彼を信じる私達を義として、なお御自身が義となるための道を設けられたのである(ロマ書3章26節)。
イエスは十字架に上って、私達に代わって罰せられたのである。彼の苦しみによって、私達の過去の罪は赦されたのである。これは、旧い福音である。現代の牧師、神学者、教会信者等に嘲られている福音である。しかし、この福音なしには、悩んでいる良心は癒されないのである。
「
御自身(みずから)懲罰(こらしめ)を受けて、我等に平安(やすき)を与へ給へり。彼の打たれし傷によりて我等は癒されたり」(イザヤ書53章5節)と。
私に出来る善行によってではない。私の努力による心霊の清浄(きよめ)によってではない。イエスが私の罪のために罰せられたことにより、私は神の前に立って清くあり得、私の罪の消滅を信じて疑わないのである。
私は、私の心霊の実験によって、「
其子イエス・キリストの血すべて罪より我等を潔(きよ)む」(ヨハネ第一書1章7節)との使徒ヨハネの言葉を文字通りに解釈して憚らないのである。
イエスは私達の罪のために敵人に渡されて、殺された。しかし、それが万事の終結(おわり)ではなかった。彼は、死に繋がれているべき者ではなかった。彼は甦られた。神は彼を甦らされた。
しかし、私達のために死んで下さった彼は、ただ御自身のために甦られたのではない。神はイエスの偉徳(いとく)を愛されて、彼一人に復活の恩恵を降されたのではない。
イエスの死は、私達のためであったように、彼の復活もまた私達のためであった。
日本訳聖書に、「我等が義とせられんが為に」とあるのは、確かに誤訳である。原語の「ディア テーン ディカイオーシン ヘーモーン」のままに、「我等の義の為めに」と訳すべきである。
イエスは私達の罪のために渡され、私達の義のために甦らされたのである。神はイエスの死によって私達の罪を罰し、彼の復活を以て私達を義とされたのである。イエスの惨死は、私達の罪の証拠である。そのように、彼の復活は私達の義の(既に義とされた)証拠である。
私達の罪の恐ろしさを見たいと思うのか。それならこれをイエスの十字架において見るべきである。私達の義(付与された)のうるわしさを見たいと思うのか。それならこれを彼の復活において見るべきである。
イエスは人類、殊に信者の代表者である。ゆえに彼の死が代表的であり、また彼の復活も代表的であった。神はイエスにあって、人類を罰されて、また彼にあって人類を義とされたのである。
イエスの死は、人類の審判である。彼の復活は、人類の彰栄(しょうえい)である。神は既にイエスにあって人類の罪を赦し、そして罪を赦しただけでなく、彼にあって既に彼等に栄光を着せられたのである。人類の受刑は、既に彼にあって済み、彼等の栄光もまた既に彼にあって獲得されたのである。
このようにして神の側にあっては、人類の罪は既に全く除かれ、人類は既に栄光を着せられたのである。今はただ人類が、神のこの恩恵の配与に応じるかどうか、その問題が残っているまでである。
そしてこの問題の解決は、至って容易である。人は誰でも信仰を以て、神のこの配与に応じて、今ただちに、神がイエスを以て下されたすべての福祉(さいわい)を自分の有(もの)とすることが出来るのである。
人類は、今は既に救われるべき状態に在るのである。そして信者は、信仰を以て神の召命(みまねき)に応じて、この祝すべき状態に入った者である。
イエスにあって、人類の救済は、既にとげられたのである。実に救済(すくい)は、人類が自分の理想を追えば終に到達出来る佳境(かきょう)ではない。神が既にイエスにあって、下された人類既得の特権である。
私の罪の赦しは? 私はこれをイエスの十字架において見る。私は日に三度自己に省みて、汚れた私を自ら潔くしようとはしない。私は、私の清めを道徳の履行に求めない。
ただイエスの十字架を仰ぎ瞻(み)る。そこに私の罪は除かれ、私の清めは行われたのである。イエスは私に代わって、その血によってすべての罪から私を清めて下さった。
私の復活は? これまた既にイエスにあって行われたのである。私は今や復活の有無について議論を闘わす必要はない。私は既にイエスにあって甦ったのである。
神は私を義とされたので、イエスを甦らせられたのである。
イエスの復活は、彼御一人のための復活ではない。人類のための復活であって、すべて信じる者の復活である。
人類が罪を犯したので、その代表者であるイエスは死に渡されたのである。そして人類の罪が赦されたので、その代表者であるイエスは、死の繋ぎから解かれ、復活昇天されたのである。
人類に臨むべき事は、善悪共にその代表者であるイエスに臨んだのである。私達は人類の運命をイエスにおいて読むのである。そしてイエスが甦らされたのを見て、人類の罪、殊に信者の罪、そして実に、
私の罪が既に除かれ、私は既に神の子としての自由に予定された者であることを知るのである。
「
イエスは我等が罪のために附(わた)され、又我等が義のために(義とされたので)甦(よみがえ)らされたり」、これが福音である。
人に向って、「君達、努力奮闘して完全の域に達せよ」と説くのではない。君達は
既に贖(あがな)われたのだから、信じてその救いと贖いとを自分の有(もの)とせよと説くのである。
私達は今は既に
贖われた時代に生存しているのである。人世はイエスの死と復活とによって、既に一変したのである。救済(すくい)は人類がこれに到達する前に、神から既に人類に臨んだのである。ゆえに福音の宣伝者は、預言者の言葉を以て叫ぶのである。
汝等の神エホバは言ひ給はく、
慰めよ、汝等我が民を慰めよ、
懇切(ねんごろ)にエルサレムに語りて之に耳語(ささやき)て告げよ
その服役の期(とき) 既に終り、
その科(とが) 既に赦されたり、
(イザヤ書40章1、2節)
と。
人類の救済(すくい)はキリストの死と復活とによって既に成し遂げられた事と見るのが新約聖書の説くキリスト教である。いわゆる現代人のキリスト教が、その理論が立派であるにもかかわらず、実際に人を救う力が無いのは、この単純な真理を認めないからであると思う。
完