全集第27巻P441〜
クリスマス演説 勝利の生涯
(伝道付録に代えて、今月はこの文を掲げます。9月1日に沓掛に
おいて行った演説の筆記です。)
大正11年(1922年)12月10日
「聖書之研究」269号
我れ是等の事を汝等に語りしは、汝等をして我に在りて平安(やすき)を
得させん為なり。汝等世に在りては患難(なやみ)を受けん。然(さ)れど
懼るゝ勿れ。我れ既に世に勝(かて)り。(ヨハネ伝16章33節)
然(しか)れども我等を愛し給ひし者に由りてすべて是等の事に勝(か)ち
得て余りあり。(ロマ書8章37節)
◎ 信者の生涯は、勝利の生涯です。どのような意味においてそうであるか。その事を簡単明瞭に示す者がヨハネ伝16章33節、殊にその後半です。
◎ 「汝等世に在りては患難(なやみ)を受けん」とあります。「汝等」とは、イエスの弟子を指して言うのです。「世」とはこの世、「患難(なやみ)」とは人生のあらゆる患難(なやみ)と、これに併せて信者特有の患難(なやみ)とを指して言うのです。
即ち人はイエスの弟子となって、即ちキリスト者となって、患難(なやみ)から免れることは出来ないと言うのです。
神を信じる必然の結果は、幸運幸福であり、患難(なやみ)は罪に対する神の刑罰であるとは、人が自ずから思う所です。ところがイエスはここに、神が遣わされたその独子(ひとりご)を信じる者は、多くの患難(なやみ)を受けるであろうと言われたのです。
◎ 「汝等此世に在りては、患難(なやみ)を受けん。人一倍に人に憎まれん。人の知らざる困苦(くるしみ)に遭はん。
然(さ)れど懼るゝ勿れ」との事です。「驚く勿れ、不思議に念(おも)ふ勿れ、恐れて退く勿れ」との事です。
しかし、イエスがここに語られた言葉は、それだけの意味ではありません。英訳では Be of good cheer. とあって、「力を落とすな、快活であれ」というような意味です。
しかしギリシャ語の tharseite (サールサイテ)は、勇ましい言葉です。「雄々しかれ、勇進せよ」というような言葉です。イエスはここに弟子達に告げて言われたのです。「汝等我が弟子となりて此世に在りて多くの患難(なやみ)を受けん。然(しか)れど勇進せよ。勝利は確実なり。我れ既に世に勝てり」と。
◎ 「我れ既に世に勝てり」と。これは著しい言葉です。イエスは今や弟子の一人に売られて、敵の手に渡されようとしていたのです。勝つどころではありません。負けて殺されようとしていたのです。ところが「我れ既に世に勝てり」と言われたのです。これは修辞学でいう誇張法(ハイパーボール)ではないでしょうか。
◎ まことにこの時、イエスは全く世に勝たれませんでした。十字架は未だ未成の事業として彼の前に横たわっていました。
しかし、全勝は確実でした。荒野の試誘(こころみ)において悪魔に勝たれて以来、彼は常に勝ち、また勝とうとして進まれました。彼が最後に父の恩恵(めぐみ)により、十字架の死にさえ勝つであろうとは、彼が少しも疑わないところでした。
そして事実は、彼の信仰を確かめました。彼は完全に、立派に世に勝たれました。そして今日の私達にとっては、イエスのこの御言葉そのままが事実です。彼は既に既に、世に御勝ちになりました。それゆえに私達は患難(なやみ)に会っても歎いてはならない、その反対に喜び勇んで進みなさいとの事です。
◎ イエスは既に世に勝たれました。彼の勝利はただ始まったばかりであって、なお多くの奮闘の後に完全(まっとう)されるべきであると言うのではありません。彼は今や勝利の途に居られるというのではありません。既に世に勝たれたのです。
戦いは既に勝って、勝鬨(かちどき)を挙げつつ昇天されたのです。そしてこの事を知って、私達はこの世に在って患難(なやみ)を受けても、悲しまないだけでなく、反って勇気が出るのです。
キリストは私達信者を以て悪魔と闘い、彼を征服しようとして努力されつつあるのではありません。彼は既に既に御自身で世と悪魔とに御勝ちになったのです。そして私達彼の弟子達は、彼が打ち滅ぼされた敵の後始末を為しつつあるにすぎません。
敵は既に致命傷を蒙って、算を乱して逃げ走りつつあるのです。そして私達は、逃げる敵の後を追って、勝利の上にもさらに勝利を収めつつあるのです。
◎ 何故に私達は、少しばかりの患難(なやみ)に挫けるのですか。何故に失敗に失望し、無能に落胆するのですか。何故に信仰の熱心がなく、伝道の勇気が出ないのですか。「我れ既に世に勝てり」というイエス様の言葉をそのままに信じられないからです。
私どもは思います。イエス様は今なお私どもを以て悪魔と闘いつつある。ゆえに私どもの敗北は、イエス様の敗北である。そして日に日に敗北を重ねつつあるので、神の国は依然として停滞の状態においてある。
「ああ、暗黒は今なおこの世の勢力である。これに抵抗する力はない。信者は少数、私は弱卒。勝利の見込みはない。私は退いて、私の孤城を守るだけだ」と。このような悲鳴が、信徒各自の口から上がるのです。
ところがイエスは言われました、「汝等世に在りて患難(なやみ)を受けん。然(しか)れど懼るゝ勿れ。勇奮せよ。
我れ既に世に勝てり」と。
あなた達を待たずに、私は……私独りで、既に、千九百年前に、世に、この暗黒の罪の世に勝った。既に勝ち終わったと。
◎ 既に勝ったのです。ゆえに勝利の実は、着々と挙がりつつあります。キリストは人の為だけに死なれたのではありません。
神のためにも、そう特に神の為に死なれたのです。キリストの贖罪の死によって、神が世に対されるその御態度が、一変したのです。これによって、新しい恩恵(めぐみ)の能力(ちから)が、彼から出るに至ったのです。
神がキリストに在って世を御覧になる時に、罪は世から全く取除かれたのです。そうしてキリストによって、恩恵の春は既に世に臨んだのです。
彼のゆえに、
そう、彼のゆえに、私達彼の信者と称する者が、何を為そうと、また為すまいと、新しい天と新しい地とは、終(つい)に現れるべく定められたのです。そう、
彼のゆえにです。
万事万物は、人を待たずに、聖父(みちち)と聖子(みこ)との間に定められたのです。そして聖子が既に世に勝って、彼は誠に世に勝たれたのです。人の子による世の征服は、既成の事実です。この事を知って、この大勝利に与るべく召された私達に、大きな勇気、大きな歓喜、大きな感謝が起るのです。
恩恵の春は、既に臨んだのです。人は努力してもこれを防止する事は出来ず、また促進する事も出来ません。ただ春風に吹かれ、花鳥を楽しみ、春相応の仕事に就くまでです。そしてその心になってこの恩恵の時代に対すれば、私達にとって良くない物などないのです。
そしてそのようにしてこそ、私達は歓喜に溢れ、勇気に燃え、常に充実して常に活動する生涯を送ることが出来るのです。そうしてこそまた平安は、彼においてのみあるのです。彼に在って万事が成就されたからです。
私が為すべき事は、既にキリストに在って成し遂げられて、私達はただその功績に与るだけです。そしてこう思う時に、勇気も熱心も勃然(ぼつぜん)として起って来るのです。
◎ パウロは言いました、「
常に我等をしてキリストに在りて勝を得しめ且つ彼を識(し)るの香(におい)を我等をして遍(あまね)く示し給ふ神に感謝す」と(コリント後書2章14節)。実にその通りです。
完