全集第27巻P450〜
神の義 他
大正12年(1923年)1月10日
「聖書之研究」270号
1.神の義
何時(いつ)説いても害がなくて益があるものは、神の義である。恩恵を説けば恩恵に狎(な)れる恐れがある。愛を説けば愛に溺(おぼ)れる危険がある(神の愛といえどもまた同じである)。奇跡を説けば迷信に陥りやすい。再臨を高調すれば、多くの再臨狂を生じる。けれども神の義に至っては、常に健全であって、常に合理的である。
もちろん愛も恩恵も奇跡も再臨も時にはこれを説かなければならない。けれども、そのうちのどれにしても、特にそれを高調して、それに害の伴わないものはない。それと比べて、義は日光または空気または穀類のようなものである。常にこれに浴し、これを吸い、これを食して害はなくて益がある。
それだけではない。義の無い所に愛は行われず、恩恵は降らず、奇跡もまた現れない。ゆえに奇跡は時々これを説き、愛と恩恵とは刻々これを唱えるべきではあるが、常に唱道して怠ってならないものは義である。
今日のキリスト教会が不健全で居るに堪えがたい理由は、全くここに在るのである。即ちその内に、憐憫と教義と熱心と神学が説かれて、神の公義が説かれず、また行われないからである。
2.義の意義
浅薄なキリスト信者は言う、「義は、人の罪を暴いて、彼を審判(さば)く事である」と。決してそうではない。義は、人の神と人とに対する義(ただ)しい関係である。この関係になければ、善事(よいこと)は何事も行われないのである。
神は人の罪を赦すに際して、義によって赦される。人を恵むにもまた、義によって恵まれる。彼は義の神であって、義によらずには、何事をも為されない。
神の僕(しもべ)もまたそうである。彼もまたその主に似て、義によらずには何事をも為さない。神も神の人も、唯(ただ)は赦さず、唯(ただ)は恵まない。誠に、唯赦し、唯恵むのは最大の不義また最大の無慈悲である。
義が要求する赦しの条件は、罪の悔改めである。恵みの条件は、信頼である。絶対的な愛と称して、悔い改めないのに赦し、信じないのに恵むのは、愛ではない、恩恵(めぐみ)ではない。キリストの愛と阿弥陀の慈悲とはこの点において全然異なる。
キリストに「羔(こひつじ)の怒」がある。即ち罪に対する深い嫌悪がある。この怒は、罪人の悔改めによってのみ宥(なだ)められる。そしてその後に、完全な赦しと遠大な恩恵が降るのである。
3.個人主義
近代人は、極端な個人主義者である。彼は先ず第一に、自分の事を思う。その次に自分の関係者の事を思う。我が事と彼の事(たいていの場合は彼女の事)。その他の事を思わない。世界の事を思わない。国の事を思わない。
神の事を思うと言うのは、実は自分と自分の愛する者との幸福を思うに過ぎないのである。近代人は、モーセにあったような、自分は滅びても国人が救われる事を願うというような心、キリストやパウロにあったような、神の義が成るためには十字架の死をさえ敢えて受けるというような心は毛頭ない。
言葉を代えて言えば、近代人に全く欠乏するものは、本当の意味においての公的精神である。彼等は、宇宙は滅びても一人の罪人が救われる事を欲し、これを称して無限の愛と言う。
誠に個人は貴い。しかし、神とその聖旨(法則)とは、個人よりも貴い。そして個人が聖旨に逆らう場合においては、神は個人を滅ぼして聖旨を維持される。個人は神のためであって、神は個人のためではない。近代人はこの事を覚らなければならない。
4.伝道成功の秘訣
伝道を成功させる秘訣など、別にない。神の御言葉である聖書を説くことである。そうすれば伝道の功は必ず上がる。そうしないで、幾ら大挙伝道、倍加運動、社会事業と焦っても、伝道の効果を見ることは出来ない。
神が預言者イザヤを以て言われた通りである。「
我が口より出る言は空しくは我に還(かえ)らず。我が喜ぶ所を成し、我が命じ遣(おく)りし事を果さん」(イザヤ書55章11節)と。
御言葉そのものが大きな力である。人の雄弁または技巧を加えることなしに、霊魂を活かし、これを永遠の道へと導く。君は教会を起してこれを盛んにしようと思うのか? 聖書を解してこれを説きなさい。聖書は教会を起し、これを盛んにするであろう。
英国人の諺(ことわざ)に言う、”Let us build railroads, and railroads will build the country” (我等をして鉄道を作らしめよ、然(さ)らば鉄道は国を作るであろう)と。それと同様に、「我等をして聖書を説かしめよ、然(さ)らば聖書は教会を興すであろう」。
先ず深く聖書を究め、それから後に生命を賭(と)してこれを説けば、個人も社会も国家も人類も救われるのは必然である。ただ残念な事は、この事が行われない事である。
5.平凡の道
平凡に上等なものと下等なものとがある。下等な平凡は、凡俗と万事を共にする事である。その中に勇敢な者と高貴な事とはなく、何事も凡俗が為すように行う。これは決して褒めるべき事ではない。
しかし、平凡にもまた上等なものがある。それは天然自然の道を取る事である。この意味において神が為される事は、すべて平凡である。神は容易に奇跡を行われない。四季の循環、草木の成長等、すべてが平凡である。
私達もまた、神に倣(なら)って行うべきである。人はキリスト者になっても、異様な人となったのではない。当たり前の人となったのである。ゆえに当たり前の人として行うべきである。
「
人のパンを価(あたい)なしに食する事なく、唯(ただ)人を累(わずら)はせざらん為に労苦して昼夜働けり」(テサロニケ後書3章8節)と言ったパウロは、平凡な人であった。
偉人はすべて平凡の人であった。英国のジョン・ブライト(
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Bright )、米国のリンカーン(
https://en.wikipedia.org/wiki/Abraham_Lincoln )、我国の西郷隆盛等、みなそうである。私達もまた努めて偉大な凡人となるべきである。
完