全集第28巻P23〜
美と義
ペテロ前書1章24節、25節。ゼカリヤ書9章13節。
(8月19日、軽井沢鹿島において述べる)
大正12年(1923年)10月10日
「聖書之研究」279号
◎ 文明人種が要求するものに、二つある。その一は美である。他のものは義である。
美と義、その二者のいずれを選ぶかによって、国民ならびにその文明の性質が全く異なるのである。
二者はいずれも貴いものであるに相違ない。しかしながら、その内のいずれが最も貴いか、これまた大切な問題であって、その解答如何によって、人の性格が決まるのである。
◎ 国としては、ギリシャは美を追求する国であったのに対して、ユダヤは義を慕う国であった。その結果として、ギリシャとユダヤとは、その文明の基礎を異にした。
日本は美を愛する点においてはギリシャに似ているが、その民の内に強く義を愛する者がいるので、その国民性にユダヤ的方面がある。イタリア、フランス、スペイン等南欧諸国は、美よりも義を重んじ、英国、オランダ、スカンジナビア諸邦等北欧諸国は美よりも義に重きを置く。美か義か、ギリシャかユダヤか、その選択は人生の重大問題である。
◎ 美が美(うる)わしいことは、もちろん言うまでもない。殊に私達日本人は、一人として美を愛さない者はない。美は造化の特性である。神は万物を美しく造られた。花や鳥が美しいばかりではない。山も川も、海も陸も、天空(そら)も平野も、すべて美しい。
そして単に美しいと言われるものだけが美しいのではない。醜いと言われるものまでが、美しいのである。よく見れば、蛇もヒキガエルも美しい。岩も小石も美しい。物として美しくないものはない。
「
諸(もろもろ)の天は神の栄光を現はし、大空は其聖手(みて)の業(わざ)を示す」と歌って、私達は造化に表れた神の美を歌うのである。讃美歌は、神の美の讃美である。美は確かに神の一面である。美を知らずには、神を完全に解することは出来ない。
◎ しかしながら、美は主に物の美である。肉体の美である。花と鳥の美である。山水の美である。水晶と宝石の美である。即ち人間以下の美である。
ところがここに、人間という霊的存在者が現れた時に、美以上の美が現れたのである。これを称して義という。義は霊魂の美である。物の美とは全く性質を異にした美である。
そして霊が物以上であるように、義は美以上である。人間に在っては、その外形(かたち)は醜くても、もしその心が美しければ、彼は本当に美しいのである。
預言者が最上・最大の人格者を言い表した言葉に、「
我等が見るべき麗(うる)はしき容(すがた)なく、美しき貌(かたち)なく、我等が慕ふべき艶色(みばえ)なし……我等も彼を尊まざりき」(イザヤ書53章2、3節)とある。しかもこの人が最も優れた人であったのである。
ソクラテスは、最も醜い人であった。ところが彼は、ギリシャ人中第一人者であったのである。パウロは身長(せい)の低い、まことに風采の揚がらない人であった。しかし、彼の主であったキリストを除いて、彼よりも大きな人は無かったと言い得る。
その他すべてその通りである。人間に在っては、その美は内に在って外にない。
人の内に在る美、それが義である。このようなわけで、義は美よりも遥かに大きな美であることが解る。
◎ ゴールドスミスが、その名著 The Vicar of Wakefield において言った、「美を為(な)す事、これ美なり」と。言葉を代えて言えば、「義、これ美なり」という事である。
人間の美、即ち義は、動物や木石の美とは全く質(たち)を異にした美である。人間に在っては、義人が本当の美人である。いわゆる美人は、低い意味においての美人である。人間が人間である以上、これは止むを得ないのである。
「
羔(こひつじ)の新婦(はなよめ)は潔(きよ)くして光ある細布(ほそきぬ)を衣(き)ることを許さる。此(この)細布は聖徒の義なり」とある(黙示録19章8節)。聖徒の義それが彼の美である。キリストの新婦の美は、この世の新婦の美とは全然違う。
◎ この明白な事実を弁えずに、義の道即ち道徳を語るのは、偽善者がすることであるかのように思い、自分は宗教家でないから、事の善悪を差別しないと言うような事は、人間が自分を人間以下の地位に置いて言う事である。
文士が取り扱う問題は、芸術と恋愛に限られ、道徳と宗教とは、措(お)いてこれを顧みないのが現代的であると思うのは、現代を人間の時代と見なさない、最も誤った思想である。
ギリシャが弱かったのはこの思想にあり、ユダヤが強かったのはこの思想に反対した点においてあるのである。
美に足りて義に欠けていたギリシャは、とうに亡び去ったのに反し、義に強くて美に欠けたユダヤは、今に至っても失せず、いよいよ輝きを増して、昼の正午(まなか)に至ろうとしている。
義は現代文士が思うように、既に過去に属するものではない。義は今もなお、そして実に永遠より永遠に至るまで、世界最大の勢力である。
万物の進化が逆行して、人間が再び獣類となるに至るならいざ知らず、人間が人間である以上、義が廃(すた)れて美だけが権威を揮(ふる)う時が来るはずがない。義を追及するシオンの人々は、今なお振るい起きて、美に耽溺(たんでき)するギリシャの人々と戦いつつある。
英国の大思想家マッシュー・アーノルド(
https://en.wikipedia.org/wiki/Matthew_Arnold )は言った、「人生の問題の十分の九は正義の問題である」と。ところが日本今日の思想家は、正義はこれを問題の外に追い出して、ただ芸術と恋愛とだけを語っている。実に恐るべき事である。
◎ 義は美以上である。しかし、義は決して美を退けない。義は美と両立しないように思うのは、大きな間違いである。本当の美は、義の在る所においてのみ栄える。世界第一流の芸術家は、極めて少数の者を除いて、すべて義を愛する人であった。
ラファエルも、ミケランジェロも、レオナルド・ダ・ヴィンチも、すべて義に強い人であった。世界第一の劇作家は、言うまでもなくシェークスピアである。そして彼の強い道徳的方面を見ずには、彼の劇を解することは出来ない。
作曲家としてヘンデルも、メンデルスゾーンも、ベートーベンも、尽(ことごと)く神を畏れ、義を愛する人であった。
天主教徒がプロテスタント教徒を非難する時に、常に後者における芸術の欠陥を指摘するが、しかしプロテスタント教徒は、その芸術において少しも天主教徒に劣らないだけでなく、多くの場合において、後者が達し得ない所に達する。レンブラントのような画家は、天主教国においては起らない。
完