全集第28巻P32〜
宗教と実際生活
(8月5日夜、軽井沢集会堂において、一般公衆に
向って述べたもの)
大正12年(1923年)10月10日
「聖書之研究」279号
◎ 人生はそれ自身で完全である。地の富源は無窮である。よくこれを開発すれば、生活のすべての欲求を充たして余りがある。生の理は深遠である。よくこれを究めて、これを実際に応用すれば、達することの出来ない望はない。
人生に必要なのは、能力(ちから)と知識とである。これがあれば、すべての満足を得ることが出来る。何も神とか来世とか、信仰とか宗教とか、霊魂とか死後生命とかいうような、有って無いような、人生以外のものを求めて、これによって生存する必要は少しもない。
以上は私が多くの識者から聞く事です。
◎ そして一見して彼等の言うことに理があるように思えます。人生に多くの苦痛、多くの矛盾、多くの不満がありますが、これ等は適当な方法を用いれば、取除くことの出来ないものではありません。
その最も簡単なものの一例を挙げれば、気候に寒暑の変化があって、冬は寒さに苦しみ、夏は暑さに苦しみますが、これはもちろん避けがたい苦しみではありません。東京に本宅を構え、熱海(あたみ)と軽井沢に別荘を設け、気候の変化に随(したが)って家族を挙げて移転すれば、寒暑問題は容易に解決されます。
また現代人が幸福の絶頂と見なす完全な家庭生活の実現もまた、達し難い志望ではありません。遺伝学の原理に基づいて、美(よ)い妻を選び、優生学が教えるところに従って子を設け、幼稚園から大学に至るまで最上等の教育を施せば、一家は美しい愛の花園のようなものになって、人生のすべての満足をその内に得ることが出来ます。
その他すべてがそれと同様です。必要なものは、能力と知識です。能力=金と知識とさえあれば、人生において得られないものはない。ゆえに私達は、努めて能力を代表する富を作り、人類が蓄積したすべての知識を取得して、人生を完全にかつ極度に楽しむべきだというのが、現代人多数の唱道するところです。
◎ しかしながら、実際の事実はどうかと尋ねてみると、これ等の理想は、容易に達することが出来ないのです。その内の最も簡単な避暑さえも、多数の人には実行し得ないのです。その他の事においても、人生の不如意は、誰も否むことが出来ません。
最も明晰(めいせき)な頭脳の所有者も、多くの間違いをします。富豪の実行し得ない事柄は沢山あります。人生はそれ自身で完全であるとは、実現することの出来ない理想です。
もし強いて実現しようとすれば、死を以てこれに当るまでであって、人は徹底と称して褒めてくれるでしょうが、生命を滅ぼして人生を楽しむとは、最も大きな矛盾です。そればかりではありません。人生はそれ自身で完全であるとは、正しい理想であるか、その事が疑問です。
もし私が全世界を私の所有としたならば、それで私は満足するでしょうか。知識の進歩がその極に達したとして、それで人類は完全に幸福でしょうか。そうは思われません。私どもは富豪から多くの悲しみを聞かされます。
ドイツはその優れた国民的知識を以てして、今やほとんど滅亡の淵(ふち)に沈みつつあります。
人生は人生以外の生命でこれを補わなければ、完成(まっとう)することが出来ないように見えます。
◎ 人の生命は一つであるか、二つであるか、問題はこれです。たいていの人は、文士識者という人までが、「一つである」と答えます。生命にかけがえがないと言って、もしこの短い人生において失敗すれば、回復の途はないと言います。
ところが少数の偉人、本当の識者は、「生命は一つでない、二つである。そして人生と称するこの肉の生命は、
より劣った生命であって、その外に、またその上に
より高い、
より優った生命がある」と言います。
それ故に、たとえその一つにおいて失敗しても、他において償うことが出来る。肉の生命における不足は、霊の生命の充実を以て充分に補うことが出来る。それはちょうど、脳髄が一葉でなくて二葉であり、たとえその一つを傷(いた)めても、他を以てこれを補うことが出来ると言うのと同じです。
またもし生命を家に例えるなら、それは一室の家ではなくて、二室の家です。一室の不足は、隣室の完備を以て補うことが出来ると言うのと同じです。そして私は、生命二室説の方が、一室説よりもはるかに優った、かつまた道理と事実に適った説であると思います。
◎ 言葉を変えて言えば、人は一つの世界に住む者ではなくて、二つの世界に住む者です。その第一はこの世界であって、私はこれを単に世界または物質界と称しましょう。その第二は霊の世界なので、これを霊界と称して差し支えないと思います。
現世、来世と言って、来世は現世の後に来るのではありません。物界と霊界とは同時に存在するものです。そして物界は廃(すた)れても霊界は残るのであるかも知れません。いずれにしろ人は一つの世界に住むのではなく、二つの世界に住むのです。
ゆえに一つの世界において失敗しても、失望するに及びません。殊に失敗した世界が<u>よりu>劣った、暫時的な世界であると知れば、失望はさらに少ないわけです。
英国の文豪で社会改良家であるチャールズ・キングスレー(
https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Kingsley )という人が言いました、My mind to me a kingdom is. (私の心は、私にとり一つの大きな帝国である)と。
もしよくこれを開発すれば、私ども各自の心が、「一つの大きな帝国」となるのです。ゆえにこの世界において、アレキサンダーやシーザーのように大帝国を得なくても、自分の心の内に大帝国を築いて、これに帝となりまた王となることが出来るのです。
◎ そして宗教とは元来何であるかと言うと、この霊界における生活に他ならないのです。「
神は霊なれば、之に事(つか)ふるに霊と真実(まこと)を以てせざるべからず」と、ナザレのイエスは言いました。
そして霊界に生きる道を教えた点において、古今東西未だかつて、イエスに勝った者はないと思います。
しかしそれは別問題として、霊の生命に充実すれば、人は容易にこの世の不幸、不公平、不完全に応じることが出来ます。単に誰にでも起こる日々の煩慮(わずらい)に勝つことが出来るだけでなく、時に身に迫る大困難に処して、平安になることが出来るのです。
私が知る人の内にも、身は不幸の極に居るにもかかわらず、顔は歓喜で輝く者は少なくありません。有名な女詩人座古愛子などは、確かにその一人です。
齢二十歳にして身体の自由を失い、残余の生命を病の床の上に送っていますが、彼女に常人の知らない生命が溢れているので、彼女に歌もあれば文もあります。
病床に在って彼女は、人を指揮して社会改良を行います。彼女には不平の痕跡さえ認めることは出来ません。多くの人は彼女を慰めようとして彼女を訪(とぶら)い、彼女に慰められて帰ります。そして彼女は決して単独の実例ではありません。
◎ 人には誰にもこういう世界があるにもかかわらず、これを耕さないのは、大きな損失ではありませんか。例えば日本にはどこかに広い領土があるにもかかわらず、人口稠密(ちょうみつ)に苦しみながら、これを棄てて顧みないのと同じです。
今日ほど自殺の多い時はありません。精神病院は、どこでも満員です。ある程度の神経衰弱に罹(かか)っていない者は、ほとんどいません。
たいていの男と女とは、みんな「問題」をもっています。そしてその問題というのは、たいていは生活問題か恋愛問題です。そしてこの問題に窮して首をくくる者、毒を仰ぐ者、喉を突く者が日々絶えないのです。
これはそもそもどういう理由(わけ)ですか。他に種々(いろいろ)な理由(わけ)もあるでしょうが、今日の日本人の多数が一つの世界が在ることを知って、他に
より良い、かつ
より大きな世界があることを知らないからではありませんか。
もしキングスレーのように、「私の心は私にとり一つの大きな帝国である」との信念があるならば、こんな事はないはずです。
宗教は実際生活に超越して、これとは何の関係もないものであると人は言いますが、それは全く違います。人が人である以上は―――彼の内に肉なる彼と霊なる彼とが在る以上は―――霊の生命である宗教は、彼の安寧(あんねい)幸福に何の関係もない事であるはずはありません。
その反対に、宗教の闡明(せんめい
:それまで不明瞭であった道理や意義をはっきりさせること)、進歩、発達により、肉の世界の不調が調和され、その多くの失望と悲痛(かなしみ)とが取り除かれ、世はたとえ暗黒の極に達しても、自分の心の一面において、大きな光明に浴することが出来ます。
◎ それだけでなく、霊の世界の開拓によって、新たな能力が肉の世界に臨みます。真の宗教は、単に悲歎(かなしみ)を取り除くというような、消極的勢力ではありません。
「
我を信ずる者は其腹より生命の川流れ出て窮(かぎ)りなき生命(いのち)に至らん」とあって、真の信仰は、活動のすべての方面において、活気と新勢力とを加えます。その事は、欧米の歴史だけでなく、我が国の歴史に徴してみても明らかです。
最も徹底的な社会改良は、信仰の復興によって起こります。今日の英国または米国またはオランダを生んだものは、ピューリタン運動という深い強い宗教運動であったことは、歴史が明らかに示しています。
霊界の大きな覚醒なしには、大きな美術も文学も哲学も、そしてこれに伴ってくる人生万般の革新は起りません。人は霊的動物です。彼は霊的に充実しなければ、健全な発達を遂げ得ません。
恋愛至上主義を唱える現代の日本人といえども、まさかこの主義によって大国家が起り、家庭が清められ、清く義(ただ)しい信仰の勇者が起って、霊魂(たましい)の根底に永遠の生命を植え付けようとは信じないだろうと思います。
◎ もちろん宗教にも種々あります。高い宗教と低い宗教とがあります。宗教の腐ったものは、武士(さむらい)や女の腐ったもののように醜いものです。
しかしながら、物が腐ると言って、その物が悪いと言うことは出来ません。その反対に、善い物ほど腐りやすいのです。石や鉛は腐りませんが、百合花(ゆり)やダリヤは腐ります。腐敗は生命の特性です。
そして宗教が政治以上に腐りやすいのは、政治以上の生命である証拠です。そして宗教が腐った場合には、これを棄てて直ちに霊的生命の源に行って、新たに宗教を受ければ良いのです。
そしてその源は今ここに在ります。諸君の心の内に在ります。私の宗教の経典である聖書の内には、こういう事が書いてあります。即ち、
嗚呼(ああ)汝等渇ける者よ、尽(ことごと)く生命(いのち)の水に
来れ。金なくして貧しき者も来たるべし。汝等来りて買ひ求めて
食へ。
金なく価(あたい)なくして生命の葡萄酒と乳とを買へ。何故に糧
(かて)にもあらぬ者の為に金を費し、飽くことを得ざる者の為に
労するや。
(イザヤ書55章1、2節)
諸君の御参考までに申し上げます。
完