全集第28巻P418〜
人生のABC
大正13年(1924年)12月10日
「聖書之研究」293号
A 人の運命について
◎ 人に運命が有ると言うが、自分も有ると信じる。幸運がある。不運がある。しかしながら、一生涯を通して
全く幸福な人、また
全く不幸な人はいないと思う。生涯を前中後の三段に分けるとすれば、その内のいずれかにおいて、幸運は巡ってくると思う。
前に幸であって、中にやや曇り、後に不幸に終わる人がいる。その反対に、前に不幸で、中にやや改善し、後に幸福に終わる人がいる。また幸か不幸を前後の間に挟む人がいる。私などは、第二種に属する者であると思う。
私の暗黒時代は長かった。少年壮年から中年を通して初老に至るまで、不幸患難は連続した。私は時々思った、自分には幸福は一生臨まない、不幸の連続で終わるのであると。私の友人たちもまた、そう思って、自分に対して深い同情を表してくれた。
ところがこの世の運命に失望して、ただ希望を来世に嘱した頃から不幸の雲はだんだんと薄らいで、終(つい)にはこの世においても、恩恵の露にうるおうようになった(今後の事は知らないけれども)。
自分ながら不思議に思う。そして自分の生涯に比べて、自分と反対の運命に在る多くの人を見受ける。即ち生涯の前半部以上を通して幸運が連続して、終わりに近づいて不幸の雲に覆われた人を見る。
幸不幸はその人の運命であるとしても、不幸はこれを前半部に受けて、幸福はこれに後半部に与る方が遥かに幸いであることを認めざるを得ない。しかしながら、運命である以上、自分でこれを定めることは出来ない。
ただ不幸だからといって失望することなく、幸福だからといって高ぶらないことが肝要である。
さらにまた、不幸は決して不幸ではなく、幸福は決して幸福ではないことを知るべきである。身が暗闇にいる時に霊は光に歩み、身が光に浴する時に、霊は光を認めがたくある。
昼は太陽の光に歩み、夜はきらめく星を仰ぐ。昼も必要であれば夜も必要である。光を感謝し、また暗闇を感謝すべきである。ゆえに信者は、運が好くても別に喜びもせず、悪くても別に悲しみもしない。ただ真の神を知ることが出来たことを感謝する。
運は天候のようなものであって、霊魂の外の状態である。好かろうが悪かろうが、神に依る霊魂には至って関係の少ないものである。
また人は、自己の努力によって、運命をかなり支配することが出来る。人に運命が有るのは確かであるが、運命の奴隷となるのは、人としての道ではない。運命を利用して、自己の向上完全を計るべきである。
「
困苦(くるしみ)に会ひたりしは我に善き事なり。此(これ)に由りて我れ汝(エホバ)の律法(おきて)を学び得たり」とある通りである(詩篇119篇71節)。
B 天才と忍耐
◎ 人は誰でも天才を欲求する。天才は親から受ける財産のようなものであって、自(みず)から働かずに得られるものなので、人がこれを欲求するのに無理はない。しかしながら、親の遺産を受け継ぐ者が稀なように、天才を授かる者もまた少ない。
天才は求めて得られるものではない。授けられた者の幸福、授けられない者の不幸と見る他に途(みち)はないのである。
◎ しかしながら、人には誰にも意志がある。彼は意志によって、優に天才の欠乏を補うことが出来る。忍耐と勤勉とである。これがあれば、天才が為す以上の事を為すことが出来る。
天才の特徴は、良い事を早く為すことである。学ぶこと少なくして、時には学ばずに、短時間で仕事を仕上げることである。
けれどもこれは、必ずしも事を為す途(みち)ではない。忍耐と勤勉とを以て事に当たれば、たとえ努力と時間とは多くても、天才に劣らない、時には天才以上の事を遂げることが出来る。詩人ゲーテが言ったように、「休まず急がずに」、コツコツと事に当たれば、凡人も優に天才を凌(しの)ぐことが出来る。
このように見れば、天才は少しも羨(うらや)むに足りない。私たち多数の凡人は、忍耐と勤勉とを以て少数の天才と競争して、これに打ち勝つであろう。
◎ それだけではない。忍耐の長所に、天才のそれに優るものがある。天才は容易く事を為すので、これに品性養成の効果が伴わない。
忍耐はそうではない。忍耐は、これを維持するのに常に意志の行動(はたらき)を要するので、人格はこれによって上進し、信仰はこのために固くされる。忍耐を継続して人は自己をますます深く知り、神にますます強く頼る。
天才の人は概ね高ぶりの人、薄情の人であるのに対して、忍耐の人は概ね謙遜の人、同情の人である。また天才は挫け易いが、忍耐は抜き難い。
天才の人がその乱用により廃人となった多くの実例を見るが、忍耐の人が堕落して、その生涯を失敗に終わった実例は滅多に見ない。こうしてどの方面から見ても、忍耐の長所は、はるかに天才のそれに優る。
◎ まことに神は、公平であられる。彼は天才を少数にお与えになるが、それは多数を顧み給わないからではない。却て
より善いものを多数凡人にお与えになって、彼等を祝福されるのである。凡人であることの幸福また特権は大きい。神が何人にもお与えになる意志の力によって、何人も為し得る事を為すのである。
神が御造りになった宇宙において、平凡は決して平凡ではない。凡人もまた神に肖(に)て造られた者である。そして神を現す点において、凡人は天才以上である。私たちは誰でも、忍耐と勤勉とを持続して、「偉大な凡人」となるように努めるべきである。
C 常識と意志
◎ 大統領リンカーンがかつて言ったことがある。「神は特に凡人を愛される。そうでなければ、彼はこれほど多く凡人を御造りにならないに相違ない」と。これによって観れば、リンカーンは自身が凡人の一人であると思い、凡人の大統領だと自らを考えたのである。そしてリンカーンは実に
偉大な凡人であったのである。
民主政治(デモクラシー)は、凡人政治以外の何物でもない。凡人に価値を認めるところに民主政治の長所がある。
天才は才能界の貴族である。凡人の才能、即ち実験から得た常識によって万事を処理しようとする所にデモクラシーの精神がある。世に凡人が人生の実験から得た常識ほど健全確実なものはないのである。
◎ これを名付けて常識と言う。常識は Common Sense (コモンセンス) の訳語である。普通意識または
凡人意識ということである。誰もが発達させ、また獲得することの出来る意識である。
常識を得るのに、貴族であり、また天才者である必要は少しもない。誰でも真面目に人生日常の責任に当たれば、自ずから得られる意識である。
そして彼リンカーンは、常識の模範的体得者であった。樵夫(きこり)の子であって、勤勉と正直との他には何の才能をも有していなかった彼が、終(つい)に人類最大の指導者と成ったのである。
◎ 意志と言えば、その強弱を語るのが普通である。意志が強固な人があり、意志薄弱な人がある。ゆえに強固な意志もまた、天才の一種であるかのように思う人が多い。しかしながら、天才と意志とは、全く異なる。
もちろん両方とも神の賜物であるに相違ないが、しかし天才は特別な賜物であって、意志は普通の賜物である。世に天才の無い人はいるが、意志のない人はいない。そしてたとえ弱い意志でも、これを良く養成して、強い意志とすることが出来る。教育の必要はここに在る。
父兄と教師とは、児童の意志を指導して、その発達強健を計ることが出来る。そしてまた、人は他人に依らずに、自分で自分の意志を強くすることが出来る。
その方法の第一は、自分の意志を信頼する事である。意志も記憶力と同じで、信頼すればますます強くなる。自分は駄目だと思えば駄目になり、為すことが出来ると信じれば、為すことが出来る。
第二は、自分の意力不相応の事を企てない事である。成功は意志を奨励し、失敗はこれを失望させる。意志は小児のような者である(弱い意志は殊にそうである)。ゆえにこれは奨励すべきで、失望させてはならない。
小事を成し遂げれば、大事を為そうとする勇気が起こる。弱い意志は弱い炭火のようである。おもむろにこれを吹き起こせば、終(つい)に熱火(ねっか)と成すことが出来る。
D ゆとりの必要
◎ 何事を為すにもゆとりが必要である。「急(せ)いては事を仕損じる」と言う。 Take plenty of time. 何事にも十分に時を与えよ。善い事を為すには充分な時が要(い)る。早いのが能(のう)ではない。完全が手柄(てがら)である。
不完全な事を三つ為すよりも、完全な事を一つ為す方が、遥かにマシである。不完全なものは廃(すた)れ、完全なものは残る。急げば回(まわ)れである。つまる所、
ゆっくりと気長に事を為すのが、時間の最大経済である。
◎ 人生は短いと言うが、人一生の事を為すには充分である。急ぐ人はすべて無益な事に時間を浪費する人である。毎日少しずつ、たゆまずに働けば、一生の事を為すのに充分な時間がある。
世に「忙殺される」と称する人がいるが、彼等は多くのしなくてもよい事をして、「忙殺」されるのである。神のため、真理のため、人類のために尽くす人は、時にも心にも充分な余裕のある人である。
Things half-done are things undone. 半成の事は未成の事である。充分な時間を取り、充分に心を入れてしない事は、未だしていない事と同じである。充分な時を与えるために、
少し早く始めなさい。朝は
少し早く起きなさい。朝の少しのゆとりが全日にわたって、全日の仕事にゆとりを与える。
何事も必要に迫られてしてはならない。編集当日に成った原稿に、ろくなものがあった例はない。試験の準備は、遅くとも一カ月前に始めなさい。そうすれば満足な成績で試験を通過することが出来るであろう。
何事も時が切迫するまで、放棄するな。少し早く取り掛かって、準備と実行との間に多少の余裕を取りなさい。そうすれば、成った仕事は、やや完全に近いものとなるであろう。
◎ 世に恥ずかしいことと言って、時間にゆとりを取らなかったために、汽車に乗り遅れた場合ほどのことはない。少し早く家を出れば、この恥を取らずに済んだのである。そして、それは汽車のことだけではない。人生全体がそうである。
死の間際まで、これを迎える準備を為さずに、急いで準備に取り掛かっても、たとえ全く無効ではなくても、不完全なものにならざるを得ない。「汝の少(わか)き日に汝の造主(つくりぬし)を覚えよ」とあるのは、このためである。死の準備に充分なゆとりを持つためである。
多く遊んで急に働こうとするので急ぐのである。常に少しずつ働けば、泰然としてすべての責任に応じることが出来る。人生は長くて短い。自分の使命を果たすには充分である。けれども使命以外の事をしたいと思えば、生命が百あっても足りない。自分の使命を自覚すれば、
ゆったりとした、充実した生涯を送ることが出来る。
E 毎日少しずつ
◎ 少しずつ、そう、少しずつ、毎日少しずつ。少しずつは大きな勢力である。一日に一寸ずつ掘れば、一年間で厚さ六間の堅い大理石または御影石の岩を掘り通すことが出来る。双方から一日に一尺ずつ掘れば、長さ数マイルの難工事のトンネルも、数年かからずに貫通することが出来る。一日に一頁ずつ書けば、十年間で三千六百頁の浩瀚(こうかん)な著述を成すことが出来る。
人生は短いけれども、もし一つの事を継続して毎日少しずつするならば、死ぬまでには一大事業を成就することが出来る。驚くべきは、毎日少しずつする仕事の結果である。
◎ そして凡人が事業を為そうと思えば、この途(みち)を取るより他に方法がないのである。
惰(おこた)らず行かば千里の外も見ん
牛の歩みのよし遅くとも
と徳川家康が詠んだ通りである。大天才の豊臣秀吉には出来なかった事を、大凡才の徳川家康は成し遂げたのである。
牛進主義である。毎日少しずつ働いて、山をも平らげ、海をも干(ほ)そうとするのである。そのようにして、私たちは神に倣って働くのである。宇宙万物が成ったのも、この途(みち)に依ったのである。
◎ 今や大活動と称して、潜勢力を喚起して急に大事を為すことが流行している。それも事を為す一つの良い方法であることを疑わない。しかし、それよりも遥かに良く、また最も確実な途(みち)は、毎日少しずつ為す事である。
急に大事業を思い立って為すのではなくて、毎日、降っても照っても、時を得ても得なくても、
こつこつと為す事である。
この途(みち)を取れば、凡才も大学者と成ることが出来る。毎日一つずつの事項を暗記して、一生涯に大歴史家となることが出来る。毎日天然物一個に注意して、一生涯には大天然学者と成ることが出来る。
毎日一章ずつ読んで、三年と四カ月で聖書全部を通読することが出来る。これを生涯続けて、大聖書学者と成ることが出来る。「
誡命(いましめ)に誡命を加へ、度(のり)に度(のり)を加へ、此(ここ)にも少しく、彼(かしこ)にも少しく教ふ」と言う(イザヤ書28章10節)。
少しずつ教えられ、少しずつ学んで、誰もが大学者と成ることが出来る。
◎ 少しずつ、そう、少しずつ、毎日少しずつ。大挙伝道と称えて一時に民衆を教化しようとしない。
急速に成功を計るのはアメリカ流である。徐々に少しずつ築くのはアジア流である。静かに毎日少しずつ、愛する日本人よ。
完