全集第29巻P36〜
(「ガラテヤ書の研究」No.6)
第6回 テトスの場合
(ガラテヤ書2章1〜10節の研究)
◎ パウロは独立の人であった。彼は死を以てしても、自己の独立を維持しようとした。彼は言った、「
我が誇る所を人に空しくせられんよりは、寧(むし)ろ死ぬるは我に善き事なり」と(コリント前書9章15節)。
彼は自分と、自分に委ねられた福音の自由を維持するためには、敵に一歩も譲らなかった。「
福音の真理の汝等と共に在らんが為に、我等は彼等に一時も服せざりき」と言った(2章5節)。
けれども、そのように自己の独立を守るのに熱心だった彼は、同時にまた平和の人であった。「
為し得べき限りは、力を竭(つく)して人々と睦(むつ)み親しむべし」(ロマ書12章18節)と言って、他(ひと)に教えた言葉を、彼は文字通りに自(みず)から守った。
彼はキリストの僕(しもべ)として、意地を張らなかった。彼は自分一人が使徒であると思わなかった。彼は聖徒の交際(まじわり)を厚くした。信仰の一致を守ろうと努めた。これはキリスト信者として当然為すべき事である。ガラテヤ書2章は、この事を教える記事である。これを単にパウロ対ペテロ衝突の記録として見てはならない。
◎ 「十四年の後」とは、多分第一回のエルサレム行きの後であったろう。そしてパウロは彼の改信後十六七年の間、独立伝道に従事したのである。この長い年月の間、彼はエルサレム教会とは何の関係もなかった。
彼に、彼が直に神から受けた福音があった。彼は福音の事について、十二使徒たちに教えられる必要を感じなかった。しかしながら、彼は信仰の一致を守る必要を感じた。これは彼自身のために必要であったのではない。福音のために、これを受ける信者全体のために、そしてまた後世のために必要であった。
そしてこの目的を達するために、彼は再びエルサレムに上り、殊更に使徒たちを訪れたのであると私は思う。この心を以て2章1節を読めば、その意味は明白になると思う。
十四年の後、我れバルナバと共にテトスを伴ひて復(ま)たエルサレムに
上れり。而(しか)して我が上りしは、啓示(しめし)に循(したが)へるな
り。而して我は異邦人の中に宣伝へし所の福音を彼等に告げたり。
また名ある人には私(ひそか)に之を告げたり。是れ我が勤むること、又
既に勤めし事の徒然(むなし)からざらん為なり。
これはパウロにとり、深く計画された、対エルサレム教会の平和運動であった。バルナバと同行したのは、彼にパウロと十二使徒との間を取り持たせるためであった。テトスを伴ったのは、パウロの異邦伝道の実例を示すためであった。
そしてエルサレム教会の了解を得て、キリストに在るユダヤ人ならびに異邦人の間に、信仰の一致を確立するためであった。まことにパウロにとり、面倒なデリケートな仕事であった。一歩踏み誤れば、却て平和を乱し、一致を破る恐れがあった。
しなければならない運動である。しかし危険の伴う運動である。信仰の事に、世人には予想できない困難がある。愛と信仰とに関わる事であって、やり難い事である。パウロはこの事をあえてして、多くの辛い目に遭ったであろう。
◎ 難しい問題は果たして起こった。
それはテトスの割礼問題であった。彼は異邦人であった。そして割礼を受けずに、
ただキリストを信じただけでキリスト信者となったと言う。
これは果たして許すべき事であるかと、エルサレム教会の多くの信者は言った。パウロはもちろん割礼を受ける必要はないと言った。これに対して使徒教会の多数は、必要であると唱えた。こうして平和のためのパウロ一行のエルサレム行きは、却て争いを起こす原因となった。
そして平和を愛するパウロは、愛と平和のために、この些細な割礼の一事を譲るべきでないか。譲れば万事が平和である。全世界に単一の福音が唱えられるのである。キリストの体(からだ)に分離があってよかろうか。
パウロともあろう者は、この際宏量大度を示して、テトスに割礼を受けさせて、エルサレム教会の信用承認を得るべきではないか。
◎ 他の人ならば、この際譲ったであろう。しかしパウロは譲らなかった。これは福音の大事である。「
人の義とせらるゝは信仰に由る。律法の行(おこない)に由らず」と言うのが、パウロが説いた福音の根本である。即ち信仰だけで十分である、割礼というような、律法の行は不要であると言うのである。
ところが今、テトスの場合において、割礼を授かる必要があると言うならば、福音はその根底から崩れるのである。平和か真理か、パウロは今は二者の内の一つを選ばなければならなかった。そして彼は、平和と一致とを犠牲にして、福音の真理を選んだ。
パウロは福音の真理が、ガラテヤ人その他の異邦人の間に存続するために、テトスの割礼を拒んだ。教会の政治家等は、パウロのこの行動を見て、笑ったであろう。「パウロは狭い」と彼等は言ったであろう。そしてこの事が原因となって、今やキリスト教会が二つに割れ、ユダヤ派とパウロ派とは世界の至る所で争わざるを得なくなった。
悲しいと言えば悲しくなる。けれども
真理は平和より貴い。パウロはこの時割礼を排して、キリストの福音を世の終末(おわり)に至るまで擁護(ようご)したのである。愛すべきパウロよ!
◎ パウロのエルサレム訪問は、事実上失敗に終わった。教会内に強力な反パウロ派が起こった。その後彼等は至る所でパウロの後を追って、彼の伝道を妨げ、彼の事業を壊した。ガラテヤ教会の離反などは、この妨害運動の一つであった。
こうしてパウロは、異邦人とユダヤ人との他に、さらにまた新たな敵を作った。それは即ち、キリスト教会内の敵であった。そしてこの敵が、彼にとって最悪の敵であった。これが、彼の言う「偽りの兄弟」であった。河の難、同族の難、異邦人の難、偽りの兄弟の難と言う。その最も辛い難を彼に加える者であった。
世に宗教ほどしつこい者はない。宗教に在っては、近いほど反対が多くて激烈である。パウロがエルサレムの使徒団を離れて、独立伝道を始めて以来、いわゆる教会史は仇恨(きゅうこん)、争闘、妬忌(とき)、結党の連続であった。
ある人はこの罪をパウロに帰する。しかしこれは、彼の罪でなかった事は明らかである。その証拠として、彼はここに教会の柱と呼ばれたヤコブ、ケパ、ヨハネの三人が彼に対した態度を記している。
◎ さすがは原始教会の長老であった。彼等はパウロに降りた特別の恩寵を認めた。
我に賜ひし所の恩寵を知りしに由り、(教会の)柱と意(おも)はるゝヤコ
ブ、ケパ(ペテロ)、ヨハネは其右手を与へて我とバルナバとに交際を表
明せり……彼等は唯(ただ)、我等が彼等の内にある貧者を顧みんことを
欲(ねが)へり。
而して其事たる素より我等が進んで為(な)さんと欲する所なりき。
(9、10節)
長老等のこの申出をパウロはどれほど喜んだであろう。彼は至る所で、彼等のこの協調的態度を吹聴した。そして彼がこの時彼等に約束したエルサレム教会内の貧者救済の事を履行しようとして努力した。事はコリント後書9章において明らかである。そこを見るべきである。
◎ こうしてパウロはすべての事において譲った。しかしただ一事において譲らなかった。いや実に譲れなかった。即ち福音の真理が異邦の信者と共に在るためには、彼は万事を賭して争った。
「
イエス・キリストの十字架に釘(つ)けられし事」、ただこの事を信じることによって義とされる事、その他に救いの途(みち)はない事、「
若(も)し義とせらるゝ事律法に由らば、キリストの死は徒然(いたずら)なる業(わざ)なり」とまで彼は断言して憚(はばか)らなかった。
そしてパウロは、この信仰を守ってキリスト教のために、また人類のために大事を為したのである。彼がもしこれを譲ったならば、福音はその根本において亡びたのである。
これは教会の一致と平和とを賭しても守る必要がある。福音が亡びて教会が存(のこ)っても、何の用もない。福音と教会のいずれが必要かと問われれば、パウロはもちろん「福音」と答えたのである。
パウロの平和愛好は、常識に適(かな)う愛好であった。「
今我れ人の親しみを得ん事を要(もと)むるや。神の親しみを得ん事を要(もと)むるや……若し我れ人の心を得んことを求(ねが)はばキリストの僕(しもべ)に非ざる也」(1章10節)との彼の主張を、彼は終生とって動かなかった。
◎ この事に関して、パウロはこの後アンテオケにおいて、目の当たりペテロを詰責した。この事に関しては、彼の眼中に人はなかった。教権はどのような者か。ただ明白なこの真理を守る者ではないか。
広いも狭いも論じるに足りない。
私たちの罪のために、御自分の身を十字架に釘(つ)けられた者、ただ信仰を以て彼を仰瞻(あおぎみ)ることに由て救われる。この信仰によって私たちは合いもする離れもする。その他の事を問わない。ガラテヤ書の問題はこの問題である。キリスト教の問題はただ一つ、この問題である。
◎ 第20世紀の今日においても、キリスト信者の合同一致は、未決の問題である。世に容易に成りそうで、成るのが最も困難な事は、キリスト信者の合同である。合同は最も望ましい。けれども唯一の条件の下でのみ可能である。
信者各自がパウロと同じくキリストの十字架の下に立ち、彼を仰ぎ、彼において、そう実に
彼においてだけその義また聖また贖を認める時に、彼等は主に在って一体であって、相互に対して骨の骨、肉の肉である。
けれども十字架以外において一致しようとし、または十字架に加えて他の条件を要求する時に、合同一致は永久に不可能である。
ローマ天主教会は法王を首(かしら)とする教会の承認を必要条件とするので、これに依る信者の合同は、とうてい行われない。英国聖公会はいわゆる「聖壇の神聖」を唱えて、信仰の中心は聖餐にあると主張するので、これまた信者の合同を実現することが出来ない。
今やキリスト教国に六百有余の教派があると言われ、その各自が特殊な教義を取って動かない。けれども教義は有っても良いし、無くても良い。ただ無くてはならないものは、十字架の信仰である。
これが有るだけで足りるとし、これ以外に何ものをも要求しなければ、ここに初めて信者の合同一致が成るのである。
この信仰がなくて、あるいは社会国家のために、あるいは経費節減のために、あるいは能率増進のために、合同一致を唱えるような事は、福音の真理が何であるかを弁(わきま)えない人がする事であると言わざるを得ない。
◎ このようにして、神がパウロに唱えさせた福音は、簡単明瞭である。これは何人も見誤りようがない。我が罪のために十字架に釘(つ)けられた神の子イエス・キリスト。これを仰ぎ見て私たちに関わる神の善い聖旨(みこころ)の全部が、私たちに在って行われるのである。
ゆえに信者が歩むべき途(みち)は明瞭である。神がモーセの律法についてヨシュアに告げられた言葉が、パウロの福音について私たち各自に告げられるところである。
汝惟(ただ)心を強くして且つ勇み励んで我僕モーセ(パウロ)が汝に伝へ
し福音を守りて行ふべし。之を離れて右にも左にも曲る勿(なか)れ。然
らば汝等何処(いずこ)に往くも福祉(さいわい)を得。汝等必ず勝利を得
べし。……汝の神エホバ共に在(いま)せば、懼(おそ)るゝ勿(なか)れ。
戦慄(おのの)く勿(なか)れ。
(ヨシュア記1章6節以下)
(11月9日)
(以上、2月10日)
(以下次回に続く)