全集第29巻P107〜
(「十字架の道」No.3)
第三回 呪われたイチジク
マタイ伝21章18〜22節。マルコ伝11章12〜14節。
マルコ伝11章19〜26節。
◎ この奇跡には、イエスが為された他の奇跡に比べて、大いに異なる点がある。第一に、イエスの奇跡は大体において生かす奇跡であるのに対して、これは殺す奇跡である。
第二に、春はまだ早くて、イチジクの実るべき時ではないのに、果(み)を要求して、これを与えないからと言って、呪われたと言うのは、これは無理な要求であって、神の子の行為としては、受け取り難い節がある。
この二点から考えて、この奇跡は、解するのが最も難しいものである。
◎ しかしながら、難解の主な理由は、これを単に奇跡として見るからである。これは奇跡であるよりは、むしろ比喩である。簡単な奇跡によって示された比喩である。
葉があっても果(み)のない樹(き)は捨てられるという事実によって、表白しても実行のない信仰は斥けられるという教訓を伝えようとする比喩である。いわゆる acted parable である。演じられた比喩である。旧約聖書には、この種の比喩が数多載せられている。
アガポスと言う予言者がいて、ユダヤからカイザリヤに来て、パウロの帯を取り、自分の手足を縛って、このようにエルサレムにいるユダヤ人は、この帯の持ち主即ちパウロを縛って、異邦人の手に渡すであろうと言ったとあるが(使徒行伝21章11節)、それはこの種の比喩である。
最も力強い言い方である。言葉でもってするよりも、遥かに強い言い方である。イエスはここに予言者として、この演じられた比喩によって、エルサレムの近い将来について予言されたのである。
◎ 当時イエスの目前に横たわっていたエルサレムは、実に葉はあっても果(み)のないイチジクであった。即ち信仰の外形は盛んであったが、全然その内容を欠く状態であった。
神殿は高く天に聳(そび)え、儀式は厳格に日々行われる。けれども神を敬う敬虔はなく、人を愛する愛がなかった。白く塗った墓のように、外は美(うる)わしく見えるが、内は骸骨と様々の汚穢(けがれ)に満ちていた(マタイ伝23章27節)。
学者とパリサイの人たちは、口には盛んに信仰を唱え、伝道と称して教勢拡張には熱心であったが、信仰の根本である愛と謙遜と慈悲とには全く欠けていた。
神は全ての燔祭(はんさい)と礼物(そなえもの)よりも勝って、己の如く隣を愛することを好まれるとは知りつつも、エルサレムの宗教家等は、神を祭るのに忙しくて、隣人相互を愛することを忘れた。即ち彼等は、葉は茂っていても果(み)を留めないイチジクであった。
そのような者は、長く地を塞(ふさ)ぐべきでなかった。切って捨てられ、火で焼かれるべきであった。
葉は茂って偽りの希望を人に与え、近づいてその傍に行けば、身を養うことの出来る果(み)は一つもない。言葉と儀式と教義と制度とは完備し、かつ美(うる)わしくても、実行を欠いている宗教は、このようである。
これは切って直ちに焼かれるべき者、そしてエルサレムは、葉は茂っているのに果(み)を留めないイチジクである。ゆえに神はこれを呪われると言おうと思って、イエスはここに、この小さくてしかも意味深遠な奇跡を行われたのである。
◎ そのように見れば、樹(き)を一本枯らしても、決して悪い事ではない。人生の大真理を教えるためにイチジクの樹(き)一本を失っても、少しも惜しむべきではない。
もちろん樹(き)の罪を罰するためではない。樹(き)を以て信仰の大真理を教えるためである。この奇跡を理由にイエスを責める者など、信仰の初歩を知らない者であると言わざるを得ない。
◎ ペテロによって代表された弟子たちは、この時未だこの奇跡の意味を理解せず、イエスの不思議な能力(ちから)に驚いた。一言を以て樹(き)を枯らすことの出来るイエスの大きな能力(ちから)に驚いた。
主はこの時、弟子たちの見解が浅いことを責められなかった。ただ彼等の疑問に応じて、祈祷の効力について教えられた。信じて祈れば必ず聴かれる。聴かれたいと思うなら、
既に聴かれたと信じて祈らなくてはならないとの事であった。
真(まこと)の祈祷は預言である。神の聖旨(みこころ)により必ず成ることを神に向かって訴える事である。ゆえに聴かれるのである。聴かれざるを得ないのである。
◎ そして
真の祈祷に愛が必要である。愛に欠けた祈祷は聴かれない。ゆえにイエスは教えて言われた。
又汝等立ちて祈祷(いのり)するとき、若(も)し人を恨むこと
あらば、之を赦(ゆる)すべし。そは天に在(いま)す汝等の父
に汝等も亦(また)その愆(とが)を赦されん為なり。
これが効力(ききめ)ある祈祷の必要条件である。この条件に欠ければ、祈祷は神に受け入れられないのである。
先ず心から、他(ひと)が我に対して犯した罪を赦す事である。そしてその心を以て神の台前に立って祈る時に、祈求(ねがい)は必ず受け入れられると言うのである。
そして事実はその通りである。イエスの祈祷に大能が伴ったのは、そのためである。そして注意すべきは、
ユダヤ人を呪ったイエスのこの奇跡もまた、彼等を愛する愛から出たことである。
イエスは祭司ならびにパリサイの人たちを怒り、また責められたが、彼等を憎まれなかった。「
父よ彼等を赦し給へ。彼等は何を為せし乎を知らざればなり」とは、彼が十字架の上から発せられた言葉であった。
私たちは、主が教敵を呪われたと読んで、私たちの敵を呪ってはならない。公義のために悪人は悪人として扱わざるを得ないけれども、彼等に対して「恨み」即ち悪意を懐いてはならない。実行するのが難しい事である。けれども、実行しなければならない事である。
(2月15日)
(以下次回に続く)