全集第29巻P113〜
(「十字架の道」No.5)
第五回 悪い農夫のたとえ
マタイ伝21章33〜46節。マルコ伝12章1〜12節。
ルカ伝20章9〜18節。イザヤ書第5章。
◎ 祭司の長(おさ)および民の長老等の「
汝は何の権威を以て此(この)事を為すや。誰が此(この)権威を汝に与へしや」との問いに対し、イエスは直接の答を御与えにならなかった。ただ問いを以て問いに応じて、彼等の反省を促された。
しかしながら、彼は他の方法によって、彼が何者であるか、いかなる権能の所有者であるかを示された。彼は間接に、たとえ話によって、彼等の問いに御答えになった。
これはこの場合において最も賢い方法であった。彼等はそれゆえに直ちに手を彼に触れることは出来なかった。同時にまた、彼の答えの意義を見逃すことは出来ない。
大敵を前に控えてイエスが取られた途(みち)は、すべて適切であった。死に臨んで余裕綽々(しゃくしゃく)な彼の態度に、人間のとうてい及ばない所がある。
◎ 教会はブドウ畑、神はその持ち主、教職はこれを借り受けた農夫である。そして時を経ても農夫は持ち主に借料を払わないので、彼はしばしば僕(しもべ)を遣わして、これを要求した。
ところが農夫たちはこの正当な要求を拒み、僕(しもべ)の一人を鞭打ち、一人を殺し、一人を石で撃ち、また後に遣わされた多くの僕等に対し、同一の態度に出た。最後の手段として、持ち主は彼の嗣子(よつぎ)である一子を遣わした。
ところが農夫たちは、これを機会に嗣子を除いて全財産を自分の手に収めようとし、終(つい)に彼を園から追い出して殺した。そしてこれが、イスラエルの歴史を語るものではないか。
僕は預言者、子はイエスである。そしてエルサレム教会の教職たちは、今や悪い農夫に倣(なら)い、神の最後の使者である、その一子を殺そうとしている。「汝等の何たるか、我の何たるか、又汝等が今我に何を為さんとしているか、此(この)譬(たとえ)に由て明なるべし」と。
イエスはここに祭司の長(おさ)および長老たちに告げられたのである。どんな答えも、これに勝って深刻であり得ない。
◎ 第一に学ぶべきは、
持ち主が寛大な事である。彼は、「葡萄園を作り、籬(まがき)を環(めぐら)し、其中に酒搾(さかぶね)を掘り、塔(ものみ)を建て、農夫に貸して他の国へ往けり」と言う。
彼は用意周到に作った、完備した田園を農夫の一団に貸し渡し、彼等を信頼し、彼等の行為に干渉しないために、故意に土地を離れて他国に行った。持ち主は思ったであろう、彼等は彼の意気に感じ、よく田園を耕し、喜んで貢(みつぎ)を納める義務に応じるであろうと。
ところがその結果は、正反対であった。農夫たちは、持ち主の寛大を彼の軟弱と解し、彼を愚弄し、彼に対して勝手放題をした。そして終(つい)に彼の嗣子(よつぎ)を殺して田園全部を横領しようとした。
けれども彼等は全く彼を誤解したのであった。彼は愛の故に寛大であったのであって、軟弱の故に寛大であったのではない。彼の寛大は、義によって制限される。
寛大な条件に寛大な手段を加えても、なお正当な要求に応じなければ、後に残るのは審判(さばき)である。「
此(これ)等の悪人を甚(いた)く討滅(うちほろぼ)し、期(とき)に及びてその果(み)を納むる他の農夫に葡萄園を貸し与ふ」までである。
◎ 第二に学ぶべきは、農夫たちのずうずうしさ加減である。彼等は持ち主の愛に狎(な)れ、その寛大を利用し、安心して不義を継続した。
彼等は思った、「持ち主は他国に行って帰らず、多分永久に帰らないであろう。そして葡萄園は、名は貸与であっても実は贈与に異ならない。故に持ち主の名によって貢(みつぎ)を要求するなど、これは僭越と称すべきである。
いざ私たちは、その使者だと称する者を殺して、その産業を私たちの有(もの)とすべきだ」と。彼等は互いにそう言って、そのように行った。
彼等はその心に、自己の罪を感じなくはなかった。けれども一つには欲に駆られ、二つには持ち主を侮(あなど)る余り、浅薄な理由を付して、自分の欲するままを為した。
彼等は自分が欲するように主人を解し、勝手放題に彼を扱って、少しも自分の心を咎めなかった。
◎ イスラエルは、その主人であるエホバと彼の使者に対して、そのように行った。そして終(つい)にその一子を十字架に釘(つ)けて、万事は自分の思うようになると思った。
けれども神もまた、その聖旨(みこころ)を遂げられた。聖書に録(しる)されているように、「
工匠(いえつくり)の棄てたる石は、家の隅の首石(おやいし)と成」った(詩篇118篇22節)。
イエスは殺されて、実は殺されなかった。彼はイスラエルに捨てられて、新しいイスラエルの家長と成った。そして彼を捨てた者は捨てられ、「甚(いた)く討滅(うちほろぼ)され」、「壊(やぶ)れ」、また砕かれた。
「是れ皆な主の為し給へる事にして、我等の目に奇(くすし)とする所なり」である。
◎ イスラエルの歴史は、人類の歴史である。エルサレムの教職等が、イスラエルを代表して、神とその使者とに、そのように行ったように、イスラエルは人類を代表して神とその一子とに対して、そう行ったのである。
他人の事は措いて問わないとして、日本人が神とキリストとに対してしたこともまた、このたとえ話の通りである。神を侮り、キリストを蔑視することにおいて、日本人はイスラエルに異ならない。
日本人もまた、神をあなどり、キリストを嘲って今日に至った。その事においてイスラエルと同じ報いを受けざるを得ないのである。
(3月1日)
(以下次回に続く)