全集第29巻P115〜
(「十字架の道」No.6)
第六回 王の婚宴のたとえ
マタイ伝22章1〜14節。ルカ伝14章15〜24節参照。
◎ 祭司の長(おさ)および民の長老の詰問に対し、イエスは三つのたとえ話で間接に、これに御答えになった。
第一は二人の子のたとえ話、第二は悪い農夫のたとえ話、第三は婚宴のたとえ話である。第一はバプテスマのヨハネについて、第二は聖子(みこ)御自身について、第三は使徒たちについてのたとえ話であった。
そしてまた、第一第二が天国を正義の道と見てのたとえ話であるのに対して(21章32節「夫(そ)れヨハネは義(ただ)しき道を以て来りし云々」を参照しなさい)、第三は天国または福音を饗宴と見てのたとえ話である。
福音に審判の一面はあるが、その他の一面は確かに饗宴(ふるまい)である。キリストの福音は、神が与えて下さる大きな御馳走である。
正義の要求に応じないのが罪であると同時に、好意の提供を退けるのもまた罪である。そしてユダヤ人は、神の正当な要求に応じなかっただけでなく、その慈愛の招待を退けたのである。
彼等が終(つい)に神に捨てられ、国を奪われ、市(まち)を焼かれるに至るのは当然であると、イエスはこれ等三つのたとえ話で教えられたのである。
◎ 何人の家に取っても、婚姻は家の慶事である。故に自(みず)から喜び、人に喜びを共にしてもらいたいのは、自然の情である。
故にいずれの国においても、婚姻は祝賀の絶頂として認められるが、殊にユダヤならびに近東諸国全体においてそうである。人はその産を尽くして婚姻に伴う饗宴を盛んにする。
まして酋長または王においてはなおさらである。彼は、彼が招いた人たち全部が、彼の招きに応じて来て、彼が供える饗宴に与ることを欲する。
この場合において、招待を辞するのは無礼である。重い理由なしに婚宴の招待を辞する事ほど、人の感情を傷つけるものはない。
イエスはここに言葉で、人間のこの情を描いて、神とユダヤ人との関係を明らかにされたのである。
◎ 神はその僕(しもべ)である使徒たちを用いて、ユダヤ人をその子の福音に招かれた。ところが彼等は、つまらない理由でこれを辞した。辞してある者は畑に行った。ある他の者は商売に行った。これは既に大きな侮辱である。
ところがある者はさらに進んで、王の使者たちを捕らえ、辱しめ、また殺した。ユダヤ人たちは、天国の福音を至って軽い、つまらないものとして取り扱った。それだから彼等は、神の怒りに触れざるを得なかった。
「
王之を聞きて怒り、軍勢を遣わして、使者を殺せる者を亡ぼし、又其邑(まち)を焼けり」とある通りの運命に遭った。民の不幸、王の失望、この上なしであった。
◎ しかし婚宴の準備は既に成った。誰かがこれに招かれなければならない。けれども招かれた者が辞したので、招かれなかった者が招かれざるを得ない。
ユダヤ人が辞したので、異邦人が彼等に代わって招かれたのである。即ちロマ書9章25節においてパウロが述べた、
神、ホセヤの書(ふみ)に「我は我民ならざりし者を我民と称へ、
愛せざりし者を愛する者と称へん」。又「汝等我民ならずと言
はれたりし其処(そのところ)の彼等も、活ける神の子と称へら
るべし」と言へるが如し。
との言葉が、事実となって現れたのである。
(3月8日)
(以下次回に続く)