全集第29巻P123〜
(「十字架の道」No.9)
第九回 第一の戒
マタイ伝22章34〜40節。マルコ伝12章28〜34節。
ルカ伝10章25〜37節参考。
◎ パリサイ派の人たちは、ヘロデ党の人たちと組んで、納税問題を以てイエスに迫ったが、撃退された。次いでサドカイ派の学者たちは、復活問題を以て彼を試みて、返って啓発された。
最後にパリサイ派の学者たちは、頭を寄せ合って論議し、終(つい)に彼等の一人を選び、さらにイエスに問わせた。いわく、「
師よ、律法(おきて)の内、何(いず)れの誡(いましめ)か大なる」と。
これは彼等に取って難問題の一つであって、これをイエスに問いかけて、彼を苦しめようとした。聖書に六百有余の訓戒(いましめ)があって、その内のどれが一番大きいかとは、当時の神学者たちの頭脳を悩ませた議題であった。
ナザレの預言者は、この問題に対して、どのような解答を与えるであろうか。
◎ しかしながら、問題は至って明白である。実はこれは問題とするに足りないものである。パリサイ派の人たち自身が、毎朝毎夕繰り返して言うではないか。
イスラエルよ聴け、我等の神エホバは、惟(ただ)一(ひとり)の
エホバなり。汝心を尽し力を尽して汝の神エホバを愛すべし。
(申命記6章4、5節)
と。これが第一であって、一番大きな戒である。第二もまたこれと同様である。
己の如く汝の隣を愛すべし。
(レビ記19章18節)
と。そして以上は律法部類に属するが、律法に止まらず、預言もまたこれに関わる。即ち旧約全体が、以上の二カ条の戒によって立つのであると。
◎ まことに明々白々である。敢えて問題とするに足りない。これを問題とするのは、彼等の心が曲がっているからである。
偽りのない純正な人は、そのような明白な問題に対して何も疑義を挟まない。そして、そのような問題に対して「言ふは答ふる」である。鷺(さぎ)は鷺、カラスはカラスと言えば、問題は解決するのである。
世の中に、自明の真理を問題とするほど愚かなことはない。けれども人は往々にして、この過ちに陥るのである。神を離れる結果として、心が狂って、その判断までが狂うのである。「律法の内何れの誡か大なる」と。愚問である。問う者の愚を現して誤りないのである。
◎ 問題は明白である。同時にまた深遠である。「神は一なり」と言うのは、単に神は一位なりと言う事ではない。
神は一体であって、その内に分離矛盾はないと言うことである。
単に多神教に対して一神教を唱えたのではない。不完全な神に対して、完全な神を唱えたのである。
私は一人であるが一つではない。私に内心の分離がある。罪の人は全て二重人格または三重人格である。けれども神は一つである。神は完全に調和した一体として働かれる。斉一(せいいつ)である。
神は一なりと言う事の内に、私たちの全ての希望が籠(こも)っている。彼は一つなので、その唯一の目的、即ち全世界における義の完全な実現に達せずには止まないのである。
◎ この神は
愛すべき者である。「主なる汝の神を
愛すべし」である。神は単に畏れるべきではない。研究して探り求めるべきではない。祭事(まつり)を以て仕えるべきではない。愛すべきである。子が恩愛の父母を愛するように愛するべきである。
神が大きいという理由で、怖(お)じて彼から遠ざかってはならない。あるいは彼が聖であることを恐れて、彼を祭り上げてはならない。万物の造主である真の神を、父として、最善の友として愛すべきである。
実に深い、美(うる)わしい戒である。そしてこの神を愛するのに、全身全霊全力を尽くして愛すべきである。マルコ伝に従えば、「心を尽し精神を尽し意(こころばせ)を尽し、力を尽して愛すべし」とのことである。
ある人が言った、「心は heart であって、人の内的能力の全部を指し、精神は soul であって情性を、意 mind は知能を、力 strength は意志または意力を指して言う」と。あるいはそうであるかも知れない。
神が一体であるのに対して、人もまた一体となって彼を愛すべしとの事である。二心ほど愛が忌み嫌うものはない。心だけで愛して、頭脳(あたま)はこれを承知しないようでは本当の愛ではない。知情意が合致して愛する愛こそ真の愛である。
そして神はそのようにして愛すべき者である。全身全力を込めて愛すべき者である。詩人が彼を称賛する時の心の状態もまたそれである。
我が霊魂(たましい)よエホバを讃(ほ)めまつれ、
我衷(うち)なる凡(すべ)てのものよ
其聖(きよ)き名(みな)を讃(ほ)めまつれ
(詩篇103篇1節)
と。統一した心理状態を以て神に仕えよと言うのである。
◎ 第一の戒はそれである。これを示して答えは済んだのである。ところがイエスはこれに第二を加えられた。「己の如く汝の隣を愛すべし」と。
彼はここに問われた以上を答えて、反対者のそれ以上の発言を封じられた。第二は第一に依って立つのであって、それよりも局限された戒めである。神は全身全力を挙げて愛しなさい、即ち自己以上に愛しなさい。隣は自分と同程度に愛しなさいと言うのである。
自分を捨てて隣を愛しなさいと言うのではない。自分を愛するように愛しなさいと言うのである。
神は人が自己を愛することを許された。自愛は罪ではない。けれども自己を愛する愛を以て隣を愛すべきである。
イエスはここに彼が伝道の初めに教えられた事を繰り返されたのである。即ち黄金律と称せられる山上の垂訓の一節である。「
是故に凡(すべ)て人に為(せ)られんと欲(おも)ふ事は、汝等も亦其如く人に為よ。是れ律法と預言者なる也」。
第一の戒は宗教、第二の戒は道徳。第二は第一の一部である。けれども第一が実際的に現れる時に、必ず第二の形を取る。道徳は宗教ではないが、真の宗教は必ず道徳と成って現れる。
◎ 全身全力を挙げて神を愛しなさい。自分のように隣を愛しなさい。これでキリスト教は尽きている。ところが事実はどうか? 今日のキリスト教界においても昔のパリサイ人の内においてのように、愛神愛人は決して第一の戒ではない。
彼等は他の問題で争う。彼等は人が神を信じ、他を愛するだけで喜ばない。自分と同じ教会に入り、自分と同じ意見を懐いて、同じ儀式に与るのを見て、初めて満足する。
しかし、真のキリスト教は一目瞭然である。神を愛する事が第一、隣を愛する事が第二である。その他はどうでも良い問題である。
(3月9日)
(以下次回に続く)