全集第29巻P133〜
(「十字架の道」No.12)
第12回 羔(こひつじ)の怒
マタイ伝23章13〜36節。ルカ伝11章39〜52節参考。
◎ 黙示録6章に、「羔(こひつじ)の怒」という事がある。その17節にいわく、「
羔(こひつじ)の怒の大なる日すでに至れり。誰か之に抵(あた)ることを得んや」と。
羔の怒とは、奇妙な言い方である。柔和なのが羔の特性である。「
世の罪を任(お)ふ神の羔を観よ」とバプテスマのヨハネはイエスを指して言った(ヨハネ伝1章29節)。
「
彼れ詬(ののしら)れて詬らず、苦しめられて激しき言(ことば)を出さず……彼れ木の上に懸(かか)りて我等の罪を自(みずか)ら己が身に任(にな)ひ給へり」とペテロは彼について言った(ペテロ前書2章23、24節)。
そのような者に怒りがあるとは、矛盾のように聞こえる。無限の愛に怒りがあるはずがない。神の羔(こひつじ)に怒りがあってはならないと、多くの人は言う。
けれども聖書は明らかに「羔の怒」という文字を載せ、そしてマタイ伝23章にその実例を示している。
「イエスは怒り給へり」とは、福音書に二三回記してあるが、ここには彼が
非常に御怒りになられた事実が詳細に記載されている。
「
噫(ああ)汝等禍(わざわ)ひなる哉(かな)、偽善なる学者とパリサイの人よ」と七回繰り返されている。人の口から出た、最も激烈な呪詛(のろい)の言葉である。
この言葉がイエスの口から出たのである。これは果たして「柔和なイエス様」の言葉として受け取ることが出来るであろうか。けれども事実は隠せない。愛の源である神は、怒ってはならないとは、人が勝手に決めた事であって、事実はそうでないのである。
たとえ聖書のこの言葉が道理に合わないとしても、神は時々雷霆(いかづち)となって轟き、地震となって震われるのである。神は人の意見に従って行動されない。彼は怒るべき時には怒られる。
そして神の羔(こひつじ)が怒る時に、誰がこれに抗することが出来ようか。神の義憤の現われである。それゆえに恐ろしい。神を侮(あなど)って止まなければ、終(つい)にこの怒りに触れるのである。
◎ イエスはこの時まで、忍びに忍ばれた。祭司の長(おさ)および民の長老たちの質問に対し、柔和にかつ親切に御答えになった。彼はこの時まで未だかつて一回も、既成教会に対して攻撃的態度を御取りにならなかった。
けれども彼の愛が悉(ことごと)く蹂躙され、彼の忍耐が悉く嘲弄されるのを見て取られると、彼の聖憤は終に発せざるを得なかった。これは真実(まこと)に羔の怒である。怒りのための怒りではない。愛のための怒りである。
愛が執拗な抵抗に会って、熱して火となったものである。故に徹底的に御怒りになったのである。
聖(きよ)く怒るのは、聖(きよ)く愛するのと同じだけ難しい。
聖書はイエスについて、記して言う、「
未だ此(この)人の如く言ひし人あらず」と(ヨハネ伝7章46節)。また、「
如何(いか)ばかり之を愛する者ぞ」と(ヨハネ伝11章36節)。
未だイエスのように語った人はいない。また未だ彼のように愛した人はいない。そしてまた、
未だ彼のように怒った人はいない。私たちはイエスにおいて、愛の模範を見るだけでなく、また怒りの模範を見るのである。
マタイ伝23章は、怒りの模範を示すものとして貴い。人は怒る時に、そのように怒るべきである。
◎ 「噫(ああ)禍(わざわ)ひなる哉(かな)汝等偽善なる学者とパリサイの人よ」。 原語を直訳すれば、次のようになるであろう。
ウーアイ汝等に
学者とパリサイ人よ
偽善者等よ
「ウーアイ」とは、災禍(わざわい)とか苦難(くるしみ)とか言うべき言葉である。英語の Woe と同様、意味の他に感情を現す言葉である。オノマトープ即ち擬声辞の一つである。「噫(ああ)災禍(わざわい)汝等に到らんとす」と訳せば真意を通じるであろう。
災禍(わざわい)汝等に
あれと言う呪詛(のろい)ではない。
到らんとするという預言である。彼等の罪を挙げて、その必然の結果として彼等に臨もうとする災禍(わざわい)を指したのである。
「ウーアイ、噫(ああ)我れ之を言ふに忍びず、災禍(わざわい)汝等に臨まんとす」と、イエスはここに言われたのである。
◎ 「学者とパリサイ人」。
職業的聖書学者と職業的宗教家、今日で言えば、神学者と牧師伝道師、宗教学と伝道牧会を職業とする者である。故にその内に祭司もあれば、教法師もある。
宗教を職業として扱う者の総称である。そして宗教業者ほどイエスが嫌われた者はいなかった。学者と教法師とは、聖書の文字と戒律(いましめ)とを、祭司とパリサイ人とは祭事と信仰とを弄(もてあそ)ぶ者である。
彼等はいずれも、神の聖事を軽く扱う者であって、その罪は最も重い。彼等は活ける神の活ける言葉を、死んだ文字または機械に化する者である。
「
それ儀文は殺し霊は生かす」とあるように、彼等は儀文を以て人の霊魂を殺しつつある。これを見て、神の羔(こひつじ)は怒らざるを得なかった。
学者とパリサイ人は今もいる。聖書を言語学と考古学と文学的批評の材料として使う以外、これを用いる途(みち)を知らない者、今日の欧米諸大学に設けられた聖書学講座が取り扱う問題は、概ねこれである。
そしてパリサイ人!彼等は自己拡張のために宗教を用いる者である。宗教界における帝国主義の応用者である。他(ひと)の教会を倒して自分の教会を興そうとする。伝道と称して、水陸(うみやま)を巡回して、一人でも多く自分の教会に引き入れようとする。
自分に従う者が信者、従わない者が異教徒だとする。誠実もなければ、親切もない。彼等の伝道の唯一の目的は、自分の後に従う者を作ることにある。彼等は信仰箇条とバプテスマと聖餐式とを、このために利用する。
彼等自身が地獄の子であって、彼等によっていわゆる信者に成った者は、彼等よりも倍の地獄の子とされる。政治家の圧政は憎むべきであるが、宗教家の圧政ははるかにそれ以上である。彼等は神と来世とを利用して、自分の勢力を張ろうとする。
◎ 「偽善者よ」。 神と人とを偽る者なので、こう称する。ギリシャ語のヒポクリテスは俳優のことであると言う。舞台の上で善人を演じる者である。
偽善者は必ずしも根本的な悪人ではない。世には無意識な偽善者がいる。自分では偽善者と知らずに偽善を行う者がいる。しかしながら、偽善者は偽善者であって、神はこれを嫌われる。
偽善者は白く塗った墓である。外は美しく見えるが、内は骸骨と様々な汚穢(けがれ)で満ちている(27節)。内と外とが全く異なる。寡婦の家を呑(の)みながら、偽って長い祈祷をする(14節)。その信仰は、全て言葉と習慣と思想との信仰である。
(4月19日)
(以下次回に続く)