全集第30巻P463〜
キリスト教と東洋文明
昭和2年(1927年)11月10日
「聖書之研究」328号
我れ(イエス)はダビデの根また其苗裔(すえ)なり。我は輝く
曙(あけ)の明星なり。 (黙示録22章16節)
東方の博士嬰児(おさなご)イエスを訪ね来る。(マタイ伝2章1〜12節)
マルタとマリヤの話(ルカ伝10章38〜42節)
◎ 仏教は東洋人の宗教であって、キリスト教は西洋人の宗教であるというのは、最も浅薄な見方である。両宗教の性質から考えるならば、ちょうどその反対が真理である。
仏教は哲学的な西洋人向きの宗教であって、キリスト教は信仰的な東洋人向きの宗教である。ゆえに仏教が東洋人の間に存在するためには、全くその性質を変えて、純然とした東洋教に変化せざるを得なかった。
釈迦牟尼自身がアーリアン人であって、彼が編み出した人生哲学は、宗教の名をさえ付することが出来ないものであった。それがシャム
(タイ)、ビルマ
(ミャンマー)、日本等に流行する、いわゆる仏教と化したのは、非常に不思議だと言わざるを得ない。
西洋にあってキリスト教は、西洋化を免れなかったけれども、なおその本来の素質を失わずに残った。その点において、キリスト教の抵抗力が遥かに仏教以上であることを認めざるを得ない。
キリスト教は西洋文明の異分子として残ったにもかかわらず、仏教は東洋文明を代表するまでに、東洋人に同化した。仏教に比べてキリスト教は、遥かに強健な、
ねばり強い宗教であると言わざるを得ない。
◎ 世界人類に東西の別があることは、否定できない事実である。神は人を男女に御造りになったように、人類を東西に御造りになった。
男は女の発達した者でないように、西洋は東洋の発達した者でない。男女が相互の補充性であるように、東洋と西洋もまた相互の補充性である。そして
東洋が人類の女性であり、西洋がその男性であることは、全般に知れ渡った事実である。
エマソンがその妻リディアをアジアと呼んだこととか、長く日本に滞在した、ある宣教師(彼はカナダ人であった)が、常に彼の観察を述べて、「男西洋善くあります、女日本善くあります」と言ったとかいう事は、よく東西両洋の特性を言い表している。
東洋人は演繹性に富み、西洋人は帰納性に秀でている。東洋は内に堅くなろうと思い、西洋は外に強くなろうと思う。東洋人は安息を愛して、西洋人は活動を好む。二者いずれにおいても例外があるのはもちろんであるが、全体の傾向において判然としている。
西洋文明の極端が太平洋の彼岸(ひがん)の米国であって、東洋文明の極端が此岸(しがん)の支那である。神は一人より全ての国民を造り、これを東西両洋に造られたと言って間違いないのである。
◎ そして聖書に現れたキリスト教が、女性または東洋性に濃厚である事は、何人も見逃すことが出来ない。
聖書は初めから家庭の歴史であった。アブラハム、イサク、ヤコブなどのいわゆる列祖は、いずれも家庭の人であった。イスラエル人が家系を重んじたのは家庭の基礎を固めるためであった。
預言者の理想は、国民各自が平和な家庭に宿ることであった。この理想を最も明らかに描いたものが、イザヤ書32章15節以下である。その18節に言う、
我民は平和の家に宿らん。煩(わずら)ひなき住所(すみか)に
居らん。安らかなる休息所(いこいどころ)に居らん。
大国家を作って国威を世界に挙げようと言うのではない。
百歳にて死ぬる者は尚(な)ほ若しとせられん。彼等家を建て
之に住み、葡萄園(ぶどうぞの)を作りて其果(み)を食ふべし。
(イザヤ書65章2021節)
と言うのであった。
◎ そして預言者のこの理想が、東洋人全体の理想であることを否定することは出来ない。国家主義または帝国主義は決して東洋に起こった主義でない。東洋人全体は、家に在って、田を耕して、平和な生涯を送ろうとする。
英国の文士ロバートソン・スコット氏が、好戦国と称せられた日本に来て、その民の大多数が何よりも平和を愛する農民であるのを見て驚いた。支那に戦争は絶えないけれども、その民の大多数は、戦争に何の興味も持たない。各自その業に従事して、兵乱の内に平和の生涯を営む。
西洋人は言う、ホームは西洋キリスト教国の特有物であって、異教国にこれを見ないと。果たしてそうか、大きな疑問である。
キリストの臨在が家庭を清めるために必要な事は、私も認めるけれども、楽しいホームが西洋以外に無いと言うのは、甚だしい偏見であると思う。
西洋人は日本を称して子供のパラダイスと言うではないか。楽しいホームの無い所が、どうして子供のホームであり得るか。
西洋に在っては、俳優で劇作者であったジョン・ハワード・ペインの作った Home Sweet Home が最美の家庭歌として認められるけれども、東洋においては、それ以上の家庭歌がいくらでもあるとの事である。
英国の支那学者H・A・ガイルス氏の説によれば、陶淵明(
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%B7%B5%E6%98%8E )作「帰去来辞」は支那第一の家庭歌であって、その情緒は非常にこまやかであって、西洋文学では見られないものであると言う。
◎ 西洋はマルタであって、東洋はマリアである。そしてイエスはマルタよりもマリアを好まれた。ローマを代表するヘロデが嬰児イエスを殺そうとした時に、東方の博士三人は宝の箱を携えて彼を訪ねた。
イエスは明けの明星である。東の光である。東洋が彼の光に照らされる時に、真の文明が起こるのである。
(12月12日)
完