全集第31巻P38〜
(「イザヤ書の研究」No.11)
その11 平和実現の途(みち) 2章2〜4節、同11章1〜9節
◎ 同じイザヤ書の中に、平和実現の夢は二つある。第2章と第11章とにある。第11章は、第2章よりも有名である。二者を合わせて夢は完全なものとなる。
第2章は平和実現の時期を示し、第11章はその人物を現す。いつ平和は実現するかという事と、誰によって成るかという事である。さらにまた、第一の夢は消極的であるのに対して、第二の夢は積極的である。
第一の夢は結んで言う、
斯くて彼等はその剣を打ちかへて鋤となし、
その鎗(やり)を打ちかへて鎌となし
国は国に向ひて剣をあげず、
再び戦闘の事を習はざるべし。
と。即ち戦争終息の夢である。第二の夢は結んで言う、
斯くて我が聖山の何処(いずこ)にても害(そこな)ひ傷(やぶ)る
事なからん。
そは水の海を掩ふが如くエホバを知るの知識地に充つべければ
なり。
と。即ち平和充実の夢である。
◎ そして平和は末の日にエッサイの裔(すえ)によって実現すると言うのである。「末の日」である。何時(いつ)でもではない。またエッサイの裔(すえ)によってである。誰によってでもない。
平和実現に、神が定められた時と人とがある。
時は末の日である。人間がその努力を試みつくした後である。また全地に平和実現の準備が成った後である。イエスはその時について示して言われた。
天国の此(この)福音を万国の民に証(あか)しせん為に普(あまね)
く世界に宣伝(のべつた)へられん。然る後に末期(おわり)到る
べし。
(マタイ伝24章14節)
と。そして今は未だその時でないことは、明らかである。またその時には「
エホバの家の山は諸(もろもろ)の山の頂に堅く立ち、諸(すべて)の嶺(みね)より高く挙(あが)り」(イザヤ書2章2節)とあるが、今はまだその時でない事もまた明らかである。
世の末期はその爛熟の時である。天使が収穫(かりいれ)の鎌を人類の畑に入れる時である。その時に神の敵は悉く亡びて、国は国に向けて矛(ほこ)を挙げず、再び戦闘の事を学ばないであろうと言うのである。そして未だ、その時でない事は明らかである。
◎ そして世界の平和を来らせる唯一の人がいる。その人はエッサイの裔(すえ)であると言う。エッサイはダビデの父であったから、この平和の君と称せられるべき人は、ダビデの裔(すえ)でなくてはならない。
そしてその人が、ヨセフの子として生まれたナザレのイエスでなければならない事は、誰が見ても明らかである。
簡単に言えば、
世界平和は、政治家の策動によっては来ずに、エッサイの裔(すえ)であるイエス・キリストによって来ると言うのである。そして歴史がよくこの事を証明する。
平和は平和会議によって来ず、私たちは今年もまたジュネーブ市における英米日の軍縮会議を見た。それが立派に失敗に終り、その結果として米国海軍の大拡張となり、人は第二次世界大戦が遠くはないことを予想するに至った。
戦争を廃止するための戦争はその目的を達せずに、その正反対の結果を生じ、ヴェルサイユ会議は、戦争発生のための多くの種を播(ま)いた。
故ウィルソン大統領も、クレマンソーも、ロイド・ジョージも、我が西園寺公爵も、斎藤総督も、世界平和を招来(もちきた)すにはあまりに微弱である。
これを成就するには神が遣わされた特別の人が要(い)る。イザヤはその人を指して言った、
エッサイの株より一つの芽出で、その根より一つの枝生えて
実を結ばん。
と。そして
この人によって狼は小羊と共に宿り云々と。
そして預言者のこの言明があったにも関わらず、米国前々大統領ウドロー・ウィルソンによって世界は民主化され、平和は地上に臨むであろうと思ったキリスト教会の愚かさよ。
平和は臨まずに、人に頼んだ教会が世界大戦以来急速に衰えたのは、当然の結果であると言わざるを得ない。
◎ 平和は来る。必ず来る。けれども人によっては来ない。世論によっては来ない。
神によって来る。「
エホバの熱心之を為し給ふべし」(9章7節)とある。世界の平和は神の大能によらなければ、成らない事業である。
ところが
ヴェルサイユ会議において、一回の祈祷が神に捧げられたとは聞かない。ただ諸強国代表の相談によって平和は実現するであろうと思った20世紀の政治家たちの愚かさは、バベルの塔を築いて諸民族の一致を計った古代の政治家たちの愚かさに、少しも劣らない。
実にいわゆる「バベルの混乱」は、世界最初の平和会議である。エッサイの裔(すえ)である平和の君イエス・キリストを崇めない平和会議は、たとえパリ、ワシントン、またカルビンの市であるジュネーブにおいて開かれても、悉(ことごと)くバベルの会議として、混乱に終るのは明白である。
そしてこの明白な事実を弁(わきま)えない、いわゆるキリスト教国の行為は、不審に堪えない。
◎ 平和は外部の圧迫によっては来ない。内心の調和から来る。武器の精巧、経済のひっ迫によっては、人類は戦争を止めない。
その心に歓喜が満ちる時に、人は争闘を嫌うに至る。
戦争を悪事だと知って、これを止めるのではない。戦争が嫌いになって、これを全く廃するのである。
私の日本武士の魂にイエスの霊が臨んだ時に、私は戦闘を嫌う平和好きの武士に成ったのである。
人類が戦争を止める途(みち)もまた同じである。人が死を嫌うように戦争を嫌うようになった時に、世界に平和は臨むのである。
(12月18日)
(以下次回に続く)