全集第31巻P44〜
(「イザヤ書の研究」No.13)
その13 理想と実際 2章から4章までの大意
◎ 預言者は一面においてはエホバの代言人であって、他の一面においては、イスラエルの愛国者である。彼は最も高貴な意味においての愛国者である。
人類の歴史において、多くの愛国者が現れたが、イスラエルの預言者ほどの愛国者は、これを見ることが出来ない。預言者は、愛国者の模範である。
愛国を預言者に学んで、国は根本的に救われ、民は徹底的に潔(きよ)められた。英米のピューリタン運動は、ミルトン、クロムウェルのような、深く預言者の精神を汲(く)んだ人たちによって起こされた運動である。
ギリシャ、ローマ、日本の愛国者が貴いのは言うまでもないが、しかしイスラエルの預言者に比べて、全く質の異なった愛国者である。私自身が、旧約の預言者を読むまでは、愛国とは何であるかを知らなかった。
イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、アモス、ホセア等に学んで、私は愛国が決して狭い、賎しいものではなくて、キリストの僕(しもべ)として私が懐くべき心であって、また行うべき道であることを知ったのである。
◎ 預言者は愛国者として、愛国者共通の道を辿(たど)った。彼等が普通の愛国者と異なっていたのは、神に導かれた点にあった。そして愛国者は、彼が愛する国について、高い理想を懐く者である。
この理想があって彼の心は燃え、彼の腕は鳴るのである。そして預言者イザヤにも、この理想があった。これは最も美(うる)わしいもの、比類なく壮麗なものであった。私たちが、「平和実現の夢」と題して研究した彼の言葉がそれであった。
エホバの家の山は諸(もろもろ)の山の巓(いただき)に立ち、
諸の嶺(みね)に越えて高く聳(そび)え、
而(しか)して万国は河の如くに之に流れ帰せん云々。
と言うのであった。この場合において「エホバの家」と言うのは、イスラエル即ち神の民を指して言うのであり、イザヤに取っては、彼のいわゆる「ユダとエルサレム」を言うのであった。
その国その民が全ての国民の上に立ち、万国は河のように、これに流れ入るであろうとの事であった。普通の言葉で言うならば、
イスラエルは世界第一の国となって、万国はこれに帰服するに至るであろうと言うのであった。
しかしイスラエルは、威力によって万国の王となるのではない。神の道を以て世界を導くのである。
エホバ其(その)道を(彼処(かしこ)に)我等に教へ給はん。
我等はその道に歩むべし。
そは律法はシオンより出で、
エホバの言はエルサレムより出づべければなり。
とある通りである。そしてそのような国によって、そのように導かれて、戦争は世界に止み、平和は地の果てまで漲(みなぎ)るであろうと預言者は言った。
そして彼は、自分の理想に刺激されて言った、「
噫(ああ)ヤコブの家よ、来れ、我等エホバの光に歩まん」と。(イスラエルやヤコブの家は、ユダとエルサレムの同意語であることに注意しなさい)。
◎ 以上が、イザヤの自分の国に関わる理想であった。多分彼が青年時代に抱いた理想であって、彼は終生これを捨てなかった。実に荘厳な、広大無辺の理想であった。これに比べると、我が国の愛国者が懐いた日本国に関わる理想など、遥かに遠く及ばない。
西洋文明を輸入して、彼の武器を得て彼を制しようという類ではない。神の言葉によって
ただこれだけで世界を治めようと思うのである。
聖か狂か、けれども預言者は偉大であり、彼は終生この理想によって生きた。彼はエホバとその律法とによって、その他に何の威力を用いることなしに国を起こし得るであろう、世界人類を治め得るであろうと信じた。
その点において、欧米今日の政治家にしても、イスラエルの預言者にとうてい及び得ない。
もしイザヤが今日英国または米国の議会に立って、彼のこの理想を述べたならどうであろうか。彼は直ちに議場の外に引きづり出されて、さらに民衆によって石打たれるであろう。
◎ イザヤの国であるユダとエルサレムに関わる彼の理想は以上のようであった。ところが実際はどうか? 理想が明らかになればなるほど、実際は明らかに見え、理想が高ければ高いほど、実際は醜く見える。
イザヤは彼が懐いていた崇高な理想を以て現実の社会に臨んで、「
エホバよ汝はその民ヤコブを棄て給へり」と叫ばざるを得なかった。理想と実際との懸隔(けんかく)が余りに大きかった。
それで彼に感情の激変が起った。そのような民についてそのような理想を懐いたかと思って、彼は自分の覚醒をさえ疑ったであろう。
それで希望は失望に変った。祝福は呪詛(じゅそ)に化した。恩恵の約束は審判の宣告となった。この天職を持つ民が、この状態に在ることを思って、彼は怒り、泣き、驚かざるを得なかった。
彼のこの心理状態に私たちを置いて、2章6節以下の言葉を解することが出来る。彼はここに、いずれの理想家にもある、いわゆる「産みの苦しみ」を実験したのである。
初めに美しい理想の夢、次に実際に覚めた時の苦しみ、終りに信仰による二者の調和、イザヤもまた向上のこの通路を過ぎたのであって、彼が私たちの親しい兄弟である理由は、ここに在るのである。
(1月29日)
(以下次回に続く)