全集第31巻P53〜
(「イザヤ書の研究」No.16)
その16 エルサレムの婦人(下) イザヤ書3章13節以下、エゼキエル書27章
◎ 圧政と奢侈(しゃし)とは同時に行われる。一方は他方の原因となり、また結果となる。奢侈に耽(ふけ)るために圧政を行い、圧政によって得た物を奢侈に使う。
奢侈は略奪によらずに行われることはなく、盗んで得た物はこれを浪費する。そして奢侈は主として婦人によって行われる。虚栄は婦人独特の弱点である。弱いので飾ろうとする。飾ってその弱さを掩おうとする。
婦人は男子に自分を飾らせる。そして男子は婦人を喜ばせるために虐げる。エゼベル(
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%99%E3%83%AB )とアハブの例を見なさい(列王記上16章〜列王記下9章)。
預言者が奢侈を憤るのは、奢侈が圧政によって行われるからである。
◎ たいていの人は、奢侈・贅沢(ぜいたく)は罪のない事、また軽い罪の事であると思う。しかしそうではない。
奢侈は略奪である。一人の婦人が身分不相応の装飾をするためには、多くの他の婦人が、彼女のために苦しまざるを得ない。
もし労働が正当に報いられるならば、働く者が絹を着て、働かない者は粗服に甘んじるべきである。ところが単に良家の妻女であるという理由で、働かないのに美服をまとうなら、それは働く者の報いを奪ってでなければならない。
都会の女子は知らずに農村の女子の労働の結果を奪いつつ、美服を以てその身を飾っているのである。昔支那の詩人が嘆いて言った通りである。
昨日城郭に到り 帰り来れば涙巾に満つ
遍身綺羅の者 是れ蚕を養ふ人にあらず
(旅人注):「巾(きん)」の意味:布切れ。
実に真を穿(うが)って誤りがない。故に聖書によれば、奢侈は十戒の第8条を以て戒めるべき罪である。「汝盗む勿(なか)れ」と。あなたは他人を自分のために働かせて、その労働の結果を奪ってあなたの身を飾り、肉を楽しませてはならない。
◎ イザヤ時代のユダ人は、不正な商売に従事し、不正の富を得て、これを不正に使用して、身と魂に禍を招いた。これを称して、文明の罪悪と言う。
もちろんエルサレムの婦人だけを責めるべきでない。またユダ人だけがこの罪を犯したのでない。これは社会の罪であるだけでなく、世界の罪である。人類全体が文明の恩化に与ると称して、神の賜物を乱用し、生命を毒しつつあるのである。
イザヤ時代は、決して野蛮時代ではなかった。文明は驚くべきほど進歩していた。貿易は盛んに行われた。技術は進歩し、製造は大規模に行われた。ツロ、シドンが世界的貿易市場であって、その大船は東はインドから西は今の英国まで通(かよ)った。
クレタ島、エジプト、バビロンが文化の三大中心であって、ここにあらゆる技芸が栄え、芸術品が盛んに産出された。そしてエルサレムの婦人がその身を飾るためには、主としてツロ、シドンの商人の手を経て、外国の製品を求めたのであろう。
あたかも今日の日本婦人が、その装飾品をパリ、ニューヨークから求めるのと同じである。貿易は国を富ます途(みち)であると言うが、同時にまた国を亡ぼす途である。
殊に未開発国においてそうである。入って来る物は、たいていは不用品である。今日のパリがその流行によって世界を毒しつつあるように、イザヤ当時のエジプト、バビロンがペニケの貿易商を通して、世界を堕落させたのである。
◎ イザヤ当時のツロが世界貿易に従事したその広さと品目とを知りたいと思うなら、エゼキエル書第27章を読むべきである。その16節に言う、
汝(ツロを指して言う)……汝の製造品の多きが故に、スリヤ
汝と商売をなし、赤玉、紫貨(むらさき)、繍貨(ぬいとりもの)、
細布、珊瑚(さんご)、及び瑪瑙(めのう)を以て汝と交易す。
また22節に、
シバとラアマの商人汝と商売を為し、諸(もろもろ)の貴き
香料と諸の宝石と金をもて汝と交易せり。
近頃キプロス島ならびにサルデニヤ島において発掘されたペニケ人居留地の遺物により、当時の身辺装飾の術の一班を窺うことが出来る。
その中に、イザヤ書のこの箇所に記されている瓔珞(ようらく
:首飾り)がある。手釧(うでわ)がある。耳輪がある。また指輪がある。殊に水晶に刻み込まれた香盒(こうごう
https://www.google.co.jp/search?q=%E9%A6%99%E7%9B%92&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&sqi=2&ved=0ahUKEwjtyY2Z_sjUAhULvbwKHdfZBsMQsAQIKQ&biw=1025&bih=737&dpr=1.25 )がある。
それによってこの記事が、当時の真相を写したものであることが分かる。
◎ こうして今日の文化は、進歩したとは言うが、必ずしもそうでないことが分かる。昔あった事を、今繰り返しつつあるに過ぎない。エルサレム婦人を、今なおパリ、ロンドン、東京において見るのである。
近代式(モダン)は近代式ではない。旧式である。2600年昔と変わらない。絶対的に新しい者はただ一つ、神に新たに造られた霊魂、その他はすべて旧い。
今の東京婦人の中に、紀元前700年のツロ、エルサレムの婦人と同じだけ華やかに装い得る者は多分一人もいないであろう。それを思っても、装飾に身をやつす愚かさが、いっそう深く感じられる。
◎ そう言っても、装飾を絶対に拒否するのではない。美を愛するのは、人の天性である。天然の美を発揮し、これを維持するように、何人も努めるべきである。敢えて殊更に
むさくるしく見せるに及ばない。
マダム・ギョン(
https://en.wikipedia.org/wiki/Jeanne_Guyon )が夫の心を矯正するために、故意に焼金で自分の美しい顔を焼いたという事は、決して誉めるべき事ではない。
少女には少女の美があり、老人には老人の美がある。美もまた神の賜物であるから、神聖にこれを保存し、使用すべきである。そして奢侈は反って真の美を損なう。装飾が度を越せば、美は変じて異形(いぎょう grotesque)となる。
天使の眼から見て、着飾った婦人は美人には見えず、むしろ変化(へんげ)として見えるであろう。
(以上、4月10日)
(以下次回に続く)