全集第31巻P58〜
(「イザヤ書の研究」No.18)
その18 イザヤの聖召 イザヤ書6章、エレミヤ
記1章、出エジプト記3章
◎ 人は神に召されずに信者になることは出来ない。預言者になることは出来ない。伝道師になることは出来ない。神の器は神御自身が御選びになる者であって、人が自ら進んで神職に就いたのでない。
神の真の僕はすべて、この事を知る。神に召され、彼に捕らえられてその僕となったのである。故に止むを得ないのである。
その模範的実例はアモスである。ベテルの祭司アマジヤが、王城の地であるベテルにおいて再び預言することを禁じた時に、アモスは答えて言った。
我は預言者に非ず、また預言者の子にも非ず。我は牧者なり。
然るにエホバ羊に従ふ所より我を取り、往きて我民イスラエル
に預言せよと我に宣(のたま)へり。 (アモス書7章14、15節)
と。この時既に預言を職業とする者がいた。また、世襲的預言者がいた。故にアモスは言ったのである、「私はそのいずれでもない。ただエホバが私に預言しなさいと御命じになったので、私はその命に従って預言するのである。故に人である祭司の命に聴き従って、預言を廃することは出来ない」と。
信者の確信も預言者の権威も、直接に神に召されたという事実から来るのである。キリスト信者に最もよく知られた実例は、使徒パウロの場合である。
人よりに非ず、又人に由らず、イエス・キリストと彼を死
より甦(よみがえ)らしゝ父なる神に由りて立られたる使徒
パウロ……我が母の胎を出し時より我を選びおき恩恵をも
て我を召し給ひし神、其子を異邦人の中に宣(の)べしめん
が為に聖心(みこころ)に善しとして彼を我心に示し給へる
其時云々。 (ガラテヤ書1章)
これによって観れば、パウロは今の多くの教会の伝道師のように、あるいは外国宣教師に勧められ、あるいは他の情実に余儀なくされて、異邦人の使徒に成ったのではない。あるいはまた社会改造、国家救済を目的に、伝道に従事したのでない。
発意はすべて神に在って、人にも自分にも無かった。自ら立ったのではなくて、神に押し立てられたのである。故に辞することが出来なかった。またどのような妨害に遭っても、止めることが出来なかった。
聖召(みめし)は信仰、聖職の発端であり、原因であり、持続遂行の原動力である。パウロの場合がそうであり、イザヤの場合もそうであり、私たち各自の場合もそうである。
◎ 旧約聖書において著名な聖召は三つある。その第一は、出エジプト記3〜4章に記されたモーセの聖召、その第二はイザヤ書6章の預言者イザヤの聖召、その第三はエレミヤ記第1章の預言者エレミヤの聖召である。
三者は相似て相異なる。いずれも著しい記事であって、聖書以外にそのようなものを見ることは出来ない。
モーセの場合において、エホバは棘(しば)の内の火炎(ほのお)の中に、彼に現われ、棘は火に燃えたがその棘は焼けず、神は棘の中からモーセよモーセよと呼ばれたと言う。
場面は当時モーセが滞留していたミデアンの砂漠であって、ここにエホバは嫌がるモーセを強いて、イスラエルの民を救うために、エジプトの地へと向かわせた。
第三のエレミヤの場合において、場所は記していないが、聖召の性質が、召された者の性質をよく現わしている。預言者中で最も勇敢であったエレミヤは、生まれつき最も内気な臆病な質(たち)の人であった。
しかもこの人が、胎に造られる前から神に聖(きよ)められ、万国の預言者として定められたので、彼の言葉によって国と民とはあるいは立ち、あるいは倒れるであろうとの事であった。
そして彼の生涯が、彼が自分に就て思ったのとは正反対の生涯であって、彼の場合においてもまた、召された者の好みではなくて、御召しになった者の聖旨(みこころ)が成ったのである。(ロマ書9章11節参考)
◎ イザヤはモーセと異なり、砂漠の人ではなくて、神殿の所在地である都の人であった。故に彼の聖召は、神殿において行われた。
モーセが棘の中に燃える焔の中にエホバを見たのに対して、イザヤは高く上がった御座に坐しておられる彼を拝した。イザヤはまた、モーセ及びエレミヤと異なり、聖召を辞せずに、謹んで御受けした。
我またエホバの声を聞く。曰く「我れ誰を遣さん。誰が我等
の為に往くべき乎」と。我れ曰ひけるは、「我れ此に在り。
我を遣はし給へ」と。
イザヤは他の二人に比べ従順であり落ち着いていた。同時に彼の罪の観念が深かった。モーセが
訥弁(とつべん)を恐れ、エレミヤが
自分の弱さを恐れたのに対し、イザヤは強く
汚れを感じた。
エホバは特に聖(きよ)い神として彼に見えた。彼は、「
聖なる哉(かな)、聖なる哉、聖なる哉、万軍のエホバ」と天使が讃(たた)えるのを聞いた。いわゆる TRISAGION 聖名三重頌の声である。
聖にしてまた聖にしてまた聖なる神である。その能力において、知恵において、慈愛において聖なる神である。罪の人には近づけない神である。けれども御自身が謙(へりくだ)って、罪人に近づかれる神である。
茲(ここ)にセラピムの一人、火箸をもて壇の上より取りたる
熱炭を手に携へて我に飛来り、我口に触れて曰ひけるは、視
よ此(この)火汝の唇に触れたれば、既に汝の悪は除かれ、汝
の罪は潔(きよ)められたりと。
イザヤが落着きの人、また熱情の人、清浄正義の人であった事は、以上によって分かる。彼は預言者中で、最も
円満かつ偉大な者である。
(3月4日)
(以下次回に続く)