全集第31巻P64〜
(「イザヤ書の研究」No.20)
その20 イザヤの聖召(三) イザヤ書6章
◎ セラビム各自に三対の翼があった。その一対を以て面(かお)を覆い、その他の一対を以て足を覆い、残りの一対を以て飛翔(とびか)けた。
面(かお)を覆ったのは、エホバの栄光のまぶしさに耐えなかったからである。足を覆ったのは、聖前を憚ってである。このように天使は謙虚であった。面を上げて聖顔を拝し得なかった。足を露出して聖前を汚すのを恐れた。
礼節は偽善ではない。謙遜の表現である。天使にさえ礼儀がある。まして人間においては当然礼儀があるべきである。低いプロテスタント主義は、米国流の低い民主主義を生み、その結果として礼節が地を払うに至ったことは、実に嘆かわしい。
◎ エホバの神聖を守るのに、セラピムの二班があった。あるいは一対であったかも知れない。二班は相互に呼ばわって言ったと言う。音楽で言うアンチホーン即ち答唱歌である。彼が歌って私がこれに和するという類である。
聖なる、聖なる、聖なる万軍のエホバ
と第一班が唱えると、
その栄光は全地に盈(み)つ
と他の一班が和して歌ったのであろう。荘厳極まる、天使が組織した唱歌隊の合唱である。地上の作曲家は、わずかにこれに倣うに過ぎない。ヘンデルもベートーヴェンも、わずかにこれを模倣したまでである。
ヨブ記38章7節に、天地の基(もとい)が置かれた時に、
かの時には晨星(あけのほし)相共に歌ひ
神の子たち皆な歓(よろこ)びて呼はりぬ
とあるのが、アンチホーンの他の例である。
◎ 「聖なる、聖なる、聖なる」と三度繰り返して言うのは、聖を高調する言い方であって、
完全に聖なるという意味である。あるいは義であって恩恵(めぐみ)ある能力(ちから)ある完全の神と解して解し得ないことはない。
キリスト教会はこれを TRISAGION 聖名三唱と称して、三位一体の神を讃えた言葉であると唱えてきた。意味は深遠であって、
どの様にもこれを解することが出来る。
「聖」に「近づいてならない」という意味がある。また純正という意味がある。「
エホバの聖眼は悪を見るに堪へず」というその聖である。心の聖を意味する詞(ことば)である。単に儀式的な聖でなく、倫理的、道徳的の聖である。
◎
聖なる、聖なる、聖なる万軍のエホバ
其栄光全地に盈(み)つ。
「万軍のエホバ」とは、森羅万象の神と解するのが最も適切であると思う。戦争の神ではない、造化の神である。彼は昴宿(ぼうしゅく)の鏈索(くさり)を結び、参宿(しんしゅく)の繋縄(つなぎ)を解き、十二宮をその時に従って引き出し、また北斗とその子星を導き得る者である(ヨブ記38章31、32節)。
そしてこの造化の神が聖であると言う。信望愛の神であると言う。父がその子を憐れむように、御自分を畏れる者を憐れまれる神であると言う。偉大な思想である。
神を小さな愛の神と見る者はある。また大きな能力の神と見る者はある。けれども
宇宙の神、聖なる神、即ち愛と憐憫の神と見た者は、イスラエルの預言者の他に無い。
「聖なる、聖なる、聖なる、万軍のエホバ」、これは信仰の目標であって、哲学の究極である。この神を発見した時に、宗教も哲学もその終極に達するのである。
◎ 「其栄光全地に盈(み)つ」と言う。預言者はエホバの衣裾(もすそ)が聖殿に充ちるのを見た。ところがセラピムは言った、「其栄光全地に盈(み)つ」と。天使は預言者よりも
より以上を見た。そして天使が見たところが真理である。
その栄光は全地に充ちる。その隅々に充ちる。北極から南極まで、海にも陸にも、水の一滴にも、土の一塊にも、原子エレクトロンに至るまで、彼の栄光は満ち溢れている。
宇宙の神は地上の神である。外在(マネント)の神は内在(イマネント)の神である。そして同じく聖なる神であると言う。神に関する思想は、これで尽きていると言うことが出来る。
二千年にわたって哲学者が努力して発見できなかった神を、2600年前の昔、イザヤは天使が彼に伝えるのを聞いた。
◎ 「
斯く呼はる者の声に由りて、閾(しきい)の基(もとい)揺動(ゆれうご)き家の内に煙満ちたり」とある。天使合唱の声は大きくて、聖殿の敷居の基礎が動き、その内に塵煙(じんえん)が満ちたと言う。多分男声の太いものであったであろう。
荘厳なのは、ソプラノではなくて、ベースである。殿(みや)の敷居の基礎を揺るがし、そのために砂煙が揚がったと言う。エホバを讃えまつるのに、そのような声が揚がらなければならない。
音楽礼拝もここに至って有力である。しかし、これは芸術であってはならない。聖書にいわゆる「讃美の献物(ささげもの)」でなくてはならない。
◎ 何と偉大な光景であることか。言葉は簡単である。けれども叙述は完全であって、少しも補足の必要を感じない。荘厳無比の光景である。「
エホバは其聖殿に在(いま)す。世界の人其前に静かにすべし」(ハバクク書2章20節)という光景である。
イザヤはどのようにして、このような異象に接したのであろうか。これは単に彼の想像であったろうか。あるいは彼が聖殿の祭事を理想化したものであろうか。そうとは思えない。
彼が見た光景が、あまりに壮大である。またその意義があまりに深遠である。これは神が彼に示された異象と見るのが適当である。これは、活画を以て与えられた啓示(しめし)である。
もちろん画は、彼が解し得るものであった。しかし彼自身が描いたものではなくて、神が彼のために特に描かれたものであった。
(4月8日)
(以上、5月10日)
(以下次回に続く)