全集第31巻P220〜
(「ホセア書の研究」No.5)
その5 人の愛と神の愛
我民はともすれば我より離れんとす、
人、之を招きて上に在る者に属(つか)しめんとするとも
身を起す者一人だになし。
エフライムよ我れ争(いか)で汝を棄んや、
イスラエルよ、我れ争(いか)で汝を附(わた)さんや、
我れ争(いか)で汝をアデマの如くせんや、
争(いか)でゼポイムの如くせんや。
我心我衷(うち)に転(かわ)りて我(わが)愛憐(あわれみ)
尽(ことごと)く燃え起れり、
我れ我が激しき震怒(いかり)を施すことをせじ、
我れ重ねてエフライムを滅ぼすことをせじ。
我は人に非ず神なればなり。
我は汝の中に在(いま)す聖者なり、
震怒(いかり)をもて臨まじ。 (ホセア書11章7〜9節)
天の地よりも高きが如く
エホバを畏るゝ者に彼が賜ふその愛憐(あわれみ)は大なり。
東の西よりも遠きが如く
彼は我等より我等の愆(とが)を遠(とおざ)け給へり。
父が其子を憐むが如く
エホバは自己(おのれ)を畏るゝ者を憐み給ふ。 (詩篇103篇)
キリストは我等の猶(な)ほ罪人たる時、我等の為に死たまへり。
神は之によりて、其愛を彰はし給ふ。 (ロマ書5章8節)
我等神を愛するに非ず、神我等を愛し、我等の罪の為に其子を
遣(つか)はして、宥(なだ)めの祭物(そなえもの)とせり。是れ
即ち愛なり。 (ヨハネ第一書章10節)
◎ 人は自ら自己を基として、神を推量する。それは、彼は神の像(かたち)にかたどって造られた者なので、自分にあるものは、神にあると思うからである。神は人のように愛し、赦し、お怒りになると思うのは自然である。
故に言う、「人の信ずる神は、その人のようである」と。さらに言う、「神が人を造ったのではない。人が自己の想像に従って、神を造ったのである」と。人の神はその理想である。人は神を拝すると称して、実は自分の理想を拝しつつあると。
◎ 預言者ホセアもまた、初めは自分の実験に依って、神を知った。彼は自分の家庭の不幸によって、神の苦痛(くるしみ)を知った。
彼の妻が彼に背いたように、イスラエルは神に背いた。イスラエルの背信は、不貞の罪、姦淫の罪であることを知った。そして彼が彼の妻に対して怒ったように、神がイスラエルに対して怒られることを知った。
彼は大体において間違わなかった。神を知るのに、身の実験ほど確実なものはない。子を持って知る親の恩である。
人生の全ての実験は、神を知るために必要である。ホセアは彼の家庭の辛い実験によって、人一倍に神の深い御心を知ることが出来た。
汝等の母とあげつらへ、論弁(あげつら)ふて止む勿(なか)れ、
彼女は我妻にあらず、我は彼女の夫にあらざるなり……
我れ彼女を剥(はぎ)て赤体(あかはだか)にし
其生出(うまれいで)たる日の如くし
また荒野の如くならしめ潤(うるおい)なき地の如くならしめ
渇きに由りて死なしめん
(ホセア書2章2、3節)
これは預言者が、自分の妻に対して述べた言葉を、神に移して語ったのである。ホセアは神の悲痛(かなしみ)を自分の悲痛として感じ、自分が持たせられた経験により、神に代って語る資格を与えられたと思った。
◎ このように思って、彼は半ば当たり、半ば外れた。彼は、神は自分に似て、自分以上であることを知らされた。彼の愛情は深刻であったが、とうてい神の愛に比べられないことを悟った。
神は預言者が、その背いた妻を怒るように、背いたイスラエルをお怒りになった。
しかしながら、預言者が赦せないところを、神は自由にお赦しになった。
ホセアの妻ゴメルに、その夫に赦されるべき何の理由も無かったように、エホバの民イスラエルに、その神に赦されるべき理由は何もなかった。ところが神は、預言者に、その民イスラエルに告げるように命じられた。
エホバ言ひ給ふ、その日には汝再び我をバアル(主人)と呼ばず
してイシ(我が夫)と呼ばん。……我れ我が為に彼を地に播(ま)き
(エズレル……エホバ播き給う者)、憐まれざりし者を憐み、我民
ならざりし者に向ひて「汝は我民なり」と言はん。而(しか)して
彼等は「汝は我神なり」と言はん。 (ホセア書2章18、25節)
「我れ我が為に」である。
イスラエルに憐れまれる資格は、今は全く絶えたけれども、神は御自分の愛の為に、抑えられぬ愛の故に、この愛する価値のない民を愛そうとの事であった。
ホセアは神のこの告知に与って、初めはこれに同意しなかったであろう。そして神の聖旨(みむね)であることを知って、自分の思いに逆らって、これを伝えたであろう。
ちょうど預言者ヨナが異邦ニネベの市の罪の赦しを伝えなければならなかったと同じ立場に置かれたであろう。
ここに至って彼は悟ったのである。人は神の御心を忖度(そんたく)してはならない。天が地よりも高いように、神の思いは人の思いよりも高い。神は、人の赦し得ない罪を、赦すことがお出来になる。
人の愛は決して神の愛の標準ではない。神が御自身のために愛を施される時に、その愛は、人の全ての思いを超えて無限であると。ホセアはここに神の愛について、新たに知るところがあった。
(5月20日)
(以下次回に続く)