全集第32巻P180〜
(「神に関する思想」No.4)
その4 キリスト教有神論
◎ 神は無いと言うのが
無神論である。有るか無いか、その事は人間の知識によっては分からないと言うのが
不可知論である。神は有る、しかし完成すべき宇宙を造った以上、今やその成行きに干渉されないと言うのが
自然神教である。
神は有る、有り過ぎるほどある、万有その物が神であると言うのが、
汎神教または
万有神教である。
その中に、いずれも一面の真理がなくはない。教会で言うような神はない。神は知識によって知り尽くすことは出来ない。神は万物の上に超然としていて、これを統御される。神はまた人類と天然との内に宿られて、これと苦楽を共にし、その発達を助けられる。
神に関するいずれの見方も、彼の一面を見るものであるに相違ない。けれどもそのいずれもが、神に関する完全な見方でない事を、私たちは主張する。
◎
有神論は、神を人格者として見る見方である。人格者と言っても、神は人のようなものだと言うのではない。
少なくとも人のような者であると言うのである。
神は何であっても、人以下の者でないに相違ない。獣や爬虫(はちゅう)であるはずがない。また月や星であるはずがない。星は如何に大きくても、物と力との塊に過ぎない。人一人は、ヒマラヤ山よりも貴い。
故に神が世に現れられた時に、レバノン山やナイル河として現れられずに、ベツレヘムの嬰児(おさなご)として現れられたと言うのには、深い真理がある。
神は物ではなく、力ではなく、生命である。そして生命の最も向上した者が、人間の自覚性である。自分は自分であると知る、その自覚である。これ以上になお生命があるのかどうか、私たちは知らない。
しかしながら、もし神があるとすれば、自覚者以下のものであるはずがない。もし神様が、御自分が在ることを自覚されないならば、彼は人間以下の者である。故に神と称するに足りない。人は万物の霊であるから、神は霊以下の者であってはならない。
◎
神を宇宙万物において探るのが、そもそも間違いの始めである。天文学者のラランドは、神を星の世界に求めて、これを見出し得なかったのである。彼はこれを自己の内に探るべきであった。そうしたならば見出したであろう。
神は人を御自分に象(かたど)って造られたとある。故にもし神を見ようと思うなら、これを人の内に見るべきである。そして他人の内を見ることは出来ないから、これを自分の内に探るより他に途(みち)がない。人は実に自己を知って、神を知るのである。
◎ 宇宙と言えば、大き過ぎて、誰にも知ることは出来ない。しかし自分はこれを知ることが出来る。知り尽くすことは出来ないが、大略は知ることが出来る。
私は何事をも知らないけれども、私自身を少しは知っているつもりである。私に身体(からだ)がある。これは
私の身体(からだ)であって、私自身は身体の持主であって、私は身体でない。
私は身体を以て生れ、身体を残して逝く。私はまた、身体のどこに宿るか、その事を知らない。考える時には脳によって考え、感じる時には心臓に感じる。しかし私は脳でも心臓でもない。
それならば私はどこにいるか。身体にいるとは思うけれども、ここに見よ、かしこに見よと言って、私自身の居所を指すことは出来ない。私は私の身体に充満していると言うのが、事実に最も近い言い方である。
神と万物もまた同じである。神は私と同じく霊であられるから、宇宙のどこにおられると言って、その居所を指すことは出来ない。
神は霊として宇宙万物に充満しておられる。けれども私自身が私の身体でないように、神は宇宙ではない。宇宙は即ち神であると言うのは、私の身体は即ち私であると言うのと同じである。
◎ 私はまた知る、私の内で最も貴い者は愛である事を。私に力もあり知恵もあるが、それよりも私の愛は遥かに貴い。それと同様に、神は全能全知であられるが、そのために特に貴いのではない。
神が能力と知恵だけであるならば、愛に生きる小さな人は、神以上に貴い。しかし聖書は、神は愛であると教えて、神はまた愛において完全な事を唱える。人は自己に省みて、神はそうでなければならない事を知る。
「
汝等悪き者なるに、善き賜物を其子に与ふるを知る。況(ま)して天に在(いま)す汝等の父は、求むる者に善き物を与へざらん乎」とは聖書の教え方である。即ち人に比べて神に就いて教える。
故に「天地万物の造主にしてその主宰者なる真の神よ」と御呼びするのは、不完全な呼び方である。「我等の主イエス・キリストの御父なる真の神よ」と御呼びするのが本当の呼び方である。
神は大犬星やオライオン星座においてよりも、
より完全にマリアの懐に抱かれた嬰児(おさなご)イエスにおいて現れられたのである。
◎ このようにして人は、キリストを知って初めて神を知るのである。「我を見し者は父を見しなり」と彼がピリポに言われたのは、大きな真理である。イエスが神である証拠は、彼が完全に愛されたことにおいてある。
愛は宇宙最大のもの、故に宇宙よりも大きな神は、完全な愛でなければならない。神を物質的宇宙に求めずに、これを人の内に探って、この結論に達せざるを得ない。
神に関する思想と言って、難しい問題でない。神は探るべき所に求めれば、見出すのが難しくない。「
道は汝に近く、汝の口に在り、汝の心にあり」(ロマ書10章8節)とパウロが言った通りである。
(11月25日)
完