全集第34巻P254〜
(日記No.200 1923年(大正12年) 63歳)
12月14日(金) 半晴
ナイル河水源の探検に関する「英百」の記事に大きなインテレストを覚えた。私の生涯の疑問の一つが解けたように思われて嬉しかった。合わせて水源地であるウガンダ国の伝道歴史もまた面白く読んだ。
欧州人のキリスト教伝道なるものは、半ば国土略奪であることは、ウガンダの場合を以ても充分に証明される。英国の監督を頂くようでは、とうてい完全な伝道は行われない。外国宣教師に頼らない私の伝道法が、やはり完全なものであると思う。
12月15日(土) 曇
寒くて湿っぽい、厭な日である。新着「米国地理学雑誌」に、北大西洋産魚類に関する記事を読んで面白かった。人類が毎年海から収穫(とりあげ)る魚類の価額は、10億円に達すると言う。実に莫大な額である。
人類は陸の動物であるが、その食物を海に求めて繁栄を計ることが出来る。我が日本のような土地が狭いといって嘆くに及ばない。北太平洋は、その水産の富において、北大西洋に優るとも劣らない。何故世界第一の水産国となって、外に求めずに内に満足する途(みち)を講じないのか。
12月16日(日) 晴
多忙な一日であった。引続き集会を女子学院講堂において開いた。来会者は、いつも通り多かった。しかしながら会場の整理は行き届かず、緊張に欠けるように見受けられた。
市中に出た結果として、会員以外の傍聴人が少なくなく、また遅刻者が多くて、会の静粛を妨げることが甚だしい。それで折角の聖会も充分な功を奏することが出来ず、残念至極である。
一度に200人以上の集会は避けるべきである。不規律の日本人を多数迎えて、聖(きよ)く静かな集会を催すことは、非常に困難である。不便な柏木の地において、少数の熱心家を迎えるのがやはり最上策である。
この日は前回の続きとして、テサロニケ後書2章を講じた。
12月17日(月) 晴
黙示録第4章とアフリカ大陸サハラの砂漠の研究をした。大砂漠も大富源となり得るであろうという事を知って、人類の将来に関して、大いに心を安んじることが出来た。その他は、相変わらず主を仰ぎ見て喜んだ。
私は時に思う、神は何故私の祈りを聴いて下さらないのかと。ところが主キリストを我が霊に宿すことを得て思う、そんな事はどうでも良いと。
この世のことはどうでも良い。ただキリストに在って、私が神と共にあることが出来れば、私の望みは満ち足りて、なお余りがあるのである。
12月18日(火) 晴
雑誌の原稿2頁分を書くのが今日の主な仕事であった。高価な2頁である。あとは人生の雑務に貴い時間を浪費した。
12月19日(水) 晴
浅草に、東京府第一高等女学校ならびにこれに隣接する教友某氏を訪れた。見るたびに災害の甚だしさに驚かされる。また「復興」した丸善に行き、化学、北極探検等に関する書籍数冊を求めた。
今や東京市に行くのは、ほとんど冒険的行為である。電車の雑踏、その他万般の不備は、市内生活を甚だ危険にする。
東京市は、今や有って無いような者である。何時(いつ)これが本当に復興するのか、見当がつかない。私としては、神の御言葉である聖書を説いて、その永久にわたる建設を助けるまでである。
12月20日(木) 晴
午前は女子学院講堂で、聖書研究会の婦人たちが、罹災児童に配布すべき慰問袋を作るのを見た。
良い親睦会またクリスマス祝賀会であった。各自が弁当持参で、不幸な子供たちのために終日働いたことは、どれほどイエス様を喜ばせ奉(たてまつ)るであろう。やはり与えるのは受けるよりも遥かに幸いである。
午後は帝国大学医科病理学講堂内食堂で開かれた、故医学士武信慶人氏の追悼会に出席した。来会する者は、橋田博士の他に医学士20余名であった。博士に次いで自分もまた一場の感想を述べた。
しかし別に感動を与えたように見受けなかった。我が国の大学において宗教を語るのは、何やら間が抜けているように感じる。帰途我が家の若い医学士と共に、四谷の三河屋で牛鍋を共にし、父子水入らずの忘年会を催して楽しかった。
12月21日(金) 晴
講堂改築で大工左官の音が騒がしく、その間に校正、原稿、講演準備に従事した。世は歳末で取り立て、支払いに忙殺されるが、我が家は福音の平和で充たされる。某地から届いた次の書簡など、その一例である。
拝啓、いよいよ御清栄のこと、恭賀奉ります。当年は国民一般としては地震を紀念すべきですが、自分に取っては祖業である酒造廃止を紀念すべき年と相成りました。なおまた再び研究誌に帰り、聖書に帰り、主に帰る、実に記念すべき年と相成りました。
今や酒業廃止と共に、いささか住宅の模様換えの必要があり、一切の残木をかり集め修理中です。いささか節約した経費を先生の許に捧げ、主の御用に足して下さる事を、祈り申上げます。敬具。
送られてきたのは金壱百円である。信仰の為に祖先伝来の酒造業を廃止したと言うのである。大きな勇気を要する行為である。背教者の文士輩にはとうてい出来ない業である。神がこういう人を我が国に起こされるので、その前途に希望があるのである。
12月22日(土) 雨
帝大の小野塚博士に夕食に招かれ、そこで博士の岳父石黒忠悳
( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%BB%92%E5%BF%A0%E6%82%B3 )に面会することが出来て嬉しかった。
79歳の老日本武士であって、私の生みの父に会うような心地がした。今になって旧い日本人の貴いことが解る。彼は道を知る。その点において近代人と全然異なる。
旧い日本人と新しいいわゆるキリスト信者の日本人との二者のいずれに私は近いかと言えば、私は旧い日本人に近いと断言する。
日本人特有の道を弁えない近代人は、信者であろうが不信者であろうが、私には何の関わりもない者である。そして旧い日本人が絶える時に、日本国は亡びるのであると私は固く信じる。
12月23日(日) 晴
引き続き女子学院講堂において集会を開いた。テサロニケ前書4章13〜18節を、「復活と再会の希望」と題して講じた。亡(な)き友人を思う期節であるクリスマスに最も適切な題目であると思った。
講演を終えてから、男女の会員30余名と共に芝公園に行き、そのバラック村の児童1300〜1400人にクリスマスの贈物を配った。これを貰おうとして押し寄せる児童の大軍は、見るからに気持ちが好かったと同時に、また彼等に対して厚い同情に堪えなかった。
彼等の将来を思い、また日本国中に彼等と同じ児童が2千万人ぐらいはいると思って、民族全体の将来について深く憂慮せずにはいられなかった。しかしナザレのイエスに代わり、貧しい彼等にわずかばかりの物を与えるのは、実に幸いであった。一同は大きな感謝を以て家に帰った。
(以下次回に続く)