全集第34巻P275〜
(日記No.205 1924年(大正13年) 64歳)
2月7日(木) 晴
東京女子大学学生堀内京子に、彼女の切なる希求(ねがい)に従い、バプテスマを授けた。彼女の教師一人、学友二人が証人として立ち会った。彼女は私がバプテスマを授けた第七人目である。内男二人、女五人である。
大抵の場合は教会の牧師に頼んで授けてもらう。ただ止むを得ない場合においてのみ、私自身が授ける。
「
此外には我れ人にバプテスマを施しゝこと有るや否やを知らず。キリストの我を遣しゝは、バプテスマを施させん為に非ず、福音を宣伝(のべつた)へしめん為なり」(コリント前書1章16、17節)というパウロの言葉は、これを私の言葉とすることが出来る。
2月8日(金) 半晴
昨夜暴風雨で、南風が吹いて暖かい。エペソ書を通読し、その意味を握ろうとして努力した。たしかに聖書中難解書の一つである。偉大な書であるようにも見え、また平凡な書であるようにも見える。
その中心的真理を握ろうと思って努力したことは、今日に至るまで幾回であったか知らない。けれども残念ながら今なお未解の書として残っている。しかし、読むたびに光明が増し加わることは事実である。
2月9日(土) 晴
好い気持ちになったならば働こうと思っていると、何時(いつ)まで待っても好い気持ちにならない。それよりも目の前にある仕事に着手すれば、直ちに好い気持ちになる。
働くのに優る刺激剤はない。懶惰(らんだ)な生涯ほど健康を害するものはない。もし一人が過労のために死ぬならば、百人が懶惰のために死ぬであろう。
2月10日(日) 雨
珍しくも雨の日曜であった。朝は平常よりも三四十人少なかった。午後は変らず、全体で300人足らずの集会であった。静かな、落ち着いた好い集会であった。健康はまだ全く回復しないが、何しろ二回登壇することが出来て有難かった。
午前は「軍人の信仰」と題し、マタイ伝8章5〜13節を講じ、午後は「不死の生命」に就て語った。二度とも畔上が助けてくれた。
この泥濘(ぬかるみ)を冒して300人もの人が柏木まで来てくれると思うと、熱心にならざるを得ない。この点から見て、悪しき天候は却て感謝である。
2月11日(月) 曇
紀元節である。この日海外においては、2億7千万ドルの日本公債が、利回り7分1厘という高利で売り出され、国内においては、木村長門守、直江山城守というような300年以前前の人々にまで贈位があった。
自分には日本の事は何が何やら少しも解らない。ただ子孫の事が心配である。神よ日本国を憐み給えと祈るのみである。以上を書き終わったところへ、熊本県球磨川上流の某村の某から次のようなハガキが届いた。
私は田舎の教師をしている者です。可愛い子供の前に毎日立って、自分の不甲斐なさを悲しみつつ一日一日を送って来ました。ふとしたことから先生の雑誌に接し、大正12年の9月号から本年の1月号まで、今読んでしまいました。
私には私としての目的が許され、私の仕事が広げられているような喜びが充満して来ました。私は一生小学校教師として、自分の姿を見出そうと思いました。先生、この一文は、前後も何も考えず、喜びにまかせて書き綴って、私の心は救われつつあることをお告げいたします。
これは確かに吉報である。日本の片田舎に、このような人がいるので、都に悪い悪い政治家がいても、日本の遠い将来に希望があるのである。小学教師で一生を終ることは、近代式の大学教授として終るよりも遥かに名誉また幸福である。
人は地位でもなければ職業でもない。どれほど低い地位であっても、これに在って忠実に務めて、自分の姿を見出すことが出来る。
このハガキの筆者は、球磨川の岸を離れる必要は少しもない。一生そこに踏み止まって、神のかために、人類のために、日本国のために、大事業を遂げることが出来る。
2月12日(火) 曇
雑誌2月号が出来た。第283号であって、後17号で第300号である。過去を顧みて、感恩の念に堪えない。
多くの不平家が私を去り、本誌を廃読する事を聞かせられるが、発行部数が少しも減らないことは事実である。敵が出来るだけ、それだけ味方が出来るのであると見える。
2月13日(水) 曇
千島列島中幌筵(パラムシル)島(
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%8C%E7%AD%B5%E5%B3%B6 )の地理の研究に大きな興味を感じた。
◎ 付近角筈(つのはず)在住の米国末日聖徒耶蘇教会(モルモン宗)の宣教師二人の訪問を受けた。
宗教の事は語らないようにするという条件の下に会見した。宗教以外の多くの事に就て語り、相互に大いに益する所があった。
宣教師と会見する時に、この条件による必要がある。宣教師は、会う人ごとにその宗教を説こうとするので、私たちの友人とならずに、たいていの場合は、却て私たちの敵と化すのである。
宣教師と相対して宗教は禁物である。宣教師の説く宗教ほど価値のないものはない。 I will see you on the condition that we will not speak on religion. である。
2月14日(木) 晴
気持ち好い日であった。世界地図を眺めながら、日本伝道は、アジア大陸の伝道を目的に行わなければならない事に気付いて次の一首を詠んだ。
縦(よ)し種は秋津島根に絶ゆるとも
ゴビ(原文は漢字)ヒマラヤの裾に実らむ。
こう思って心配はサッパリ消えて、気が清々した。日本のための伝道ではない。世界の為の日本伝道である。ただ福音の種さえ播いておけば、それが世界のどこかで実るのである。日本人の反対または背教など、少しも意を留めるに足りない。
2月15日(金) 晴
風強し。主な仕事は、英国の倫理学者T・H・グリーンの政治哲学に就て読むことであった。
説の可否は別として、このような高貴な哲学に思想を養われた英国の政治家と、野卑極まる政治論の外に眼を注ぎ、耳を傾けたことのない日本の政治家との間に雲泥の差があるのは、敢て怪しむに足りない。日本の前途はますます暗黒である。
2月16日(土) 晴
今日も引続きアジア伝道について考えた。感想はこれを次の駄句に表した。
荒れ果つる武蔵の原に声揚げて
亜細亜の陸(くが)に聖教(みおしえ)を説く。
2月17日(日) 晴
麗しい聖日であった。朝は200人以上、午後は120〜130人の会衆があった。歓喜溢れる一日であった。他の日は種々(いろいろ)の嫌なことに気を腐らせられるが、聖日ばかりは実に聖日であって、この世ながらに天国の香りがする。
イエスを学び、天国を望んで、私たちはこの世に在ってこの世の属(もの)でないことを感じる。
2月18日(月) 晴
休息の月曜日である。ボーサンケーの政治論、クロポトキンの社会論を読んだ。我が国近代人の思想が決して彼等独創の意見でなく、いずれも海外からの輸入のものであることがよく分かった。
まことに家庭を壊し国を亡ぼす者は、文士と芸術家とである。彼らほど嫌うべき憎むべき者はない。そして彼等の多くが私からいわゆる新思想を学ぼうと思って私の所に来たかと思うと、実に身震いするほど恐ろしい。
神の御守りにより、これからは文士と芸術家とは、その一人をも我が門内に入れることがないようにしたい。
(以下次回に続く)