全集第34巻P287〜
(日記No.208 1924年(大正13年) 64歳)
3月7日(金) 晴
エペソ書1章7節、「
その血により贖(あがない)即ち罪の赦しを得るなり」。恩恵の第一は罪の赦しである。これがなければ私たちは聖徒であり得ない。そして神はこれを、その子の十字架の死を以て行われた。
贖(あがない)は買い戻しである。罪の子からの取り戻しである。キリストが私たちに代わり、律法が命じる罪相当の苦難を受けて、贖即ち罪の赦しを行ってくださった。これは神の豊かな恩恵から出たのである。
◎ またまた口腔の改築
(治療)が始まった。講堂の改築に劣らない事業である。四五年に一度ずつは行わなければならない事業である。「亡びるこの世、朽ち行く我が身」を自覚するには頗(すこぶ)る有用な事業である。
3月8日(土) 晴
エペソ書1章7節、「
罪の赦しを得るなり」。既に聖器として定められた私たちは、今キリストの血によって罪の赦しを「得るなり」である。即ち
得つつあるのである。
既に全く潔(きよ)められたのではない。潔められつつあるのである。わずかな言葉の相違であるが、過去と現在との間には、大きな相違がある。私たちは信仰の生涯において、毎日キリストの血を注がれ、毎日毎時潔(きよ)められつつあるのである(ヘブル書10章22節)。
3月9日(日) 晴
麗しい聖日である。今朝感じた事は、私はキリストの十字架を仰ぐに止まらず、さらに進んで彼と共に十字架に釘(つ)けられなければならないと言う事である。
自分が生きている間は、自分に何も善い事は来ない。自分が死んで、キリストが自分に代わって、自分の内に生きて下さるようになって、神のすべての祝福は、自分に臨むのである。この簡単な事を忘れては、キリスト者の生涯を送るのは全く不可能である。ただし実に有難い事である。
◎ 聖日の例会は変りない。ただ会員がこの上減少する見込みなく、新たな入会の申し込みに応じることが出来ず、甚だ残念である。いずれにしろ毎日曜日が私たち一同に取り、聖(きよ)く楽しい祭日であるのは事実である。
3月10日(月) 半晴
エペソ書1章8節、「
神様々(さまざま)の智慧と聡明(さとり)を与へて此(この)恩を我に充たしめ」。第一に罪を赦し、即ち霊を潔め、第二に新たな知恵と悟りを以てこれを充たして下さる。
先ず洗滌、それから後に充実、しかもこの世の知恵と悟りとを以てではなくて、霊の事を弁(わきま)える神の知恵を以て、充たして下さる。こうして恩恵の上に恩恵が加えられる。
◎ 雑誌3月号を発送した。発行部数は3700で増減なし。
3月11日(火) 晴
エペソ書1章9節、「
我等に其旨の奥義を示し給へり」。神が私たちを恵んで下さるその最後の目的は何であるか、その奥義(秘密)を私たちに示して下さった。それは他でもない、「
キリストに在りて嗣子(よつぎ)と為ること」(11節)である。
この恩恵は、もちろん今は希望として存する。しかし希望を懐かせられる事、即ち奥義を示される事が、これまた大きな恩恵である。罪の赦し、霊の充実に次いで、これを第三の恩恵と称して良かろう。
◎ 歯なしの権兵衛である。心は30台の青年であるが、歯を見れば確かに満63歳の老人である。しかし何で憂えようか。
3月12日(水) 晴
エペソ書1章9〜11節、「
意のまゝ」、「
自(みず)から定め給ひし所なり」、「
其意のまゝに行ふ者己の旨に循(したが)ひて我等を定め」。全てが神の聖意(みこころ)に依る。故に安心である。
この宇宙、この人生、そして我が一生、すべてが神が「
自(みず)から定め給ひし所」であると知って、それが失敗に終らないことは確実である。人の罪は神の目的を破ることは出来ない。神は必ずイエス・キリストの日までに、私を完成して下さると信じる。
◎ 主婦が病床に就いたので、私が家事と事務との任務に当たった。相変わらず面倒であった。
3月13日(木) 雨
エペソ書1章10節、「
期(とき)の満る時に……万物をキリストに帰せしめん為に」。キリストは万物の中心である。万物が彼に帰して全ての不調和が終るのである。
私たちの救と称するものも、この大調和の一部分であるに過ぎないのである。救いは万物の復興と共に行われるべきものである。人は天然と共に、キリストに在って救われるのである。
◎ 鎮海湾に在勤の田中機関大佐の訪問を受けて嬉しかった。今や稀なのは、キリストを信じる日本武士である。その一人に接するのは、旧い故郷の山風に吹かれるような気持ちがする。
3月14日(金) 晴
エペソ書1章11節、「
キリストに在りて嗣子(よつぎ)と為ること」。「
キリストと共に嗣子となる事」とも、また「
キリストに在りて彼の嗣子となる事」とも解する事が出来る。多分後者が真理であるであろう。
キリストが聖父から賜る嗣業となること、これに優る栄光はない。まことに聖器が聖器であるゆえんであって、ついに疵(きず)のない者とされて、彼に譲り渡される。そうなるためにあらかじめ定められた信者の栄光はこの上ない。
3月15日(土) 晴
寒気が強い。エペソ書1章12節、「
彼の栄の讃美(ほめ)らるゝ事を為さしめんため也」。万物最終の目的はこれである。私たちが救いに定められたのもこのためである。即ち彼の栄が私たちは勿論のこと、天の万軍によって讃美されるためである。
私のための救ではない。神の栄が揚がるための救である。神本位である。私本位ではない。故に私が救われるのも確実である。「
神の栄の讃美を目的(めあて)に」と訳すべきである。
3月16日(日) 晴
聖会変わりなし。ただ入会志望者が多くてこれを収容する場所がなくて苦しむ。教会は何故に起って、これらの人々を迎えないのか。今や聖書そのままの福音を説けば、いずれの教会も出席者で溢れるであろう。
午後は青年相手にテモテ後書3章を講じて、自分も再び青年になったように感じた。まだまだ活動を止めてはならない事を切実に感じた。
3月17日(月) 晴
エペソ書1章12節、「
汝等も亦(また)」。聖徒(聖器)となる恩恵に与ったのは、私たちに止まらず、「汝等も亦」同一の恩恵に与ったのである。キリスト者は排他的ではない。自分だけで恩恵を専有しようとは思わない。
「汝等も亦」と言って、他人が同じ恩恵に与ったことを感謝する。「汝等も亦」、信者の愛を表す言葉である。
◎ 菅野道明氏の講述になる「名詩類選」を買い求め、少年時代に暗唱した漢詩の復習を始めた。第一に水戸烈公の賞梅花の詩に「雪裏占春天下魁」
(雪に負けず春を占め天下の魁となるhttp://shomon.livedoor.biz/archives/51881421.html )
これは平凡な思想のようであるが、実はそうではない。その内に深いキリスト者の希望を読むことが出来る。その他李白や杜甫の詩を読んで、私にこれを教えてくれた生みの親が思い出されて涙がこぼれた。
(以下次回に続く)