全集第34巻P290〜
(日記No.209 1924年(大正13年) 64歳)
3月18日(火) 晴
エペソ書1章13節、「
我等が業を嗣ぐの質(かた)なる約束の聖霊を以て印せらる」。深い実験の言葉である。これを題目と成して、一書を著すことが出来る。いずれも純福音の術語である。ただ然(しか)り然りと言う他、注解を付することが出来ない。 Too sacred and too true!
(あまりにも神聖で、またあまりにも真実だ!)
◎ 支那山西省平陽在留の支那内地伝道会社所属宣教師スタンレー・ホイト君に比較的に長い英文の手紙を書き、彼を通して支那4億の同胞に対し同情を表することが出来て非常に嬉しかった。
私は今日まで日本人であったが、今日からは
東亜人に成ったつもりである。天山以東が悉く我が国であると思って、私の労働(はたらき)の区域が急に広くなったように感じ、したがって、私の伝道の意味が非常に深くなったことを覚える。
もし日本のためだけの我が一生であったならば、私はこれを失敗の一生と称せざるを得ない。しかし、そうではない。黄河と揚子江の流域は、ことごとく私の祈祷の領分である。
日本において失敗しても、アジア大陸において成功することが出来る。キリストの福音は抱世界的である。これを自分の武器として戦って、私は世界的征服の栄誉に与ることが出来る。
3月19日(水) 曇
エペソ書1章13節、「
汝等キリストを信じ……約束の聖霊を以て印せらる」。救いは、人と神との共同事業である。人は信じ、神は聖霊を以て印を付される。そしてここに救が行われるのである。
聖霊を受ける途もまたここに在る。キリストを信じることにある。信者の生涯は、信仰を以て始まる。信仰がなければ神を喜ばせることは出来ない(ヘブル書11章6節)。
◎ ある兄弟が取ろうとする決心を翻そうとして苦心した。そのために精神疲労を覚えた。しなくても済むことであるけれども、しなければならないと思ったのでしたのである。
3月20日(木) 晴
エペソ書1章13節、「
業を嗣ぐの質」、「嗣業の保証」。嗣子には、嗣業すなわち彼相当の資産がなければならない。そして彼は、私たちをキリストに在って嗣子となるように定められたと同時に、これに相当する資産を与えてくださると約束された。
そしてその資産は、朽ちるようなこの世の金や銀ではない。朽ちることのない限りない真の生命(いのち)である。そしてその生命の一部分を今既に私たちに与えて下さった。それが聖霊である。私たちは今世において既に天国の前味を味わわされる。
私たちはこの世を去って、突然別世界へと移されるのではない。既に永生の、見本(質(かた))を与えられているので、その全部を受け継ぐために聖国へと往くのである。
3月21日(金) 曇
柏木日曜学校の生徒たちが、その親たちと共に、私の第63回の誕生日を祝ってくれた。会する者男女小児40余名。余興、暗唱、演説等があり、すこぶる盛会であった。ただお爺さんと呼ばれるのは甚だ嫌であった。
まことに善い者は、小児と老人とである。厭な者は
なまいきな中年である。日本の武士道も弁えず、西洋の紳士道も知らず、ただ自分の意見を押し通すことを勇敢な行為であると思う、いわゆる高等教育を受けた近代の日本人である。
この日そのような者は一人も見えず、罪のない小児たちにもてなされて、楽しい半日を送った。
3月22日(土) 晴
昨夜久し振りに雨が降った。今朝は晴れて、鶯(うぐいす)は梢(こずえ)に鳴き、めっきり春らしくなった。
エペソ書1章14節、「
神聖霊をもて印し給ふは、其目的に二あり。第一は、その買受し者(所有物)を救(贖)はん為なり。第二は、己の栄を顕さん為也」。
信者は神の所有物である。それが完全に再び神の御手に帰するのは末日(おわりのひ)である。その日神の栄光もまた完全に顕(あら)われるのである。私たちのような者に今日聖霊を注いで下さるのは、この最後の日を目的としてである。単に今日私たちが欣喜雀躍するためではない。造化完成の日を祝すためである。
3月23日(日) 晴
風なく雲なく申し分のない春の朝であった。四方から集って来る信仰の兄弟姉妹は、午前と午後で400人に近く、その内に山陽や九州から来た人もいた。
讃美歌232番「しづけきかはべを、すぎゆく時にも、……心やすし、神によりて安し」は四方に響き渡って楽しかった。畔上の後を受けて、私は「ヤイロの娘」に就て話した。自分の実験を語るのであって、講演が感話に変って、聴衆に申し訳がなかった。午後の講演は余り振るわなかった。
3月24日(月) 晴
塚本虎二が腸チフスに罹り重態だとの報に接し、強く心を痛めた。今日彼を失うことは、日本国の大損害である。聖旨に適うなら、ぜひとも彼を活かしておいていただきたい。何と心配の多い人生であることか。
3月25日(火) 曇
詩篇18篇25節に言う、「
汝(エホバ)は憐憫(あわれみ)ある者には憐憫ある者となり……僻(ひが)む者には僻む者となり給ふ」と。
私たちもまたそうである。近代人には近代人となり、教会信者には教会信者となり、謙遜なキリスト者には謙遜なキリスト者となる。そうするのは、何も悪を以て悪に報いるのではない。止むを得ないのである。このようにして彼等に彼等自身がどのような者であるかを知らせるのである。
◎ この日陸中花巻の斉藤宗次郎の一女多祈子にバプテスマを授けた。斉藤はほとんど30年来の信仰の同志である。今日あるに至った摂理の指導を感謝せざるを得ない。彼女が女子学院卒業生であるので、学院の教師二人に立ち会ってもらった。
3月26日(水) 雨
エペソ書1章15、16節、「
是故に我も亦(また)汝等が主イエスを信ずることを聞きて……感謝して已まず」。キリスト者の深く大きな感謝は、人がキリストを信じるに至った事である。その人が誰であろうが、この感謝は変らない。
その人が同国人であろうが、外国人であろうが、平民であろうが、貴族であろうが、我が教会に入ろうが、他の教会に属しようが、問う所ではない。一人の霊魂がキリストによって救われたと聞いて、本当のキリスト者は心の底から喜びかつ感謝するのである。
この深く聖(きよ)い喜びのない者は、教会の事にいくら熱心であっても、キリストの僕婢ではない。信者の信仰の真偽を試すのに、これよりも明確な標準はない。
◎ 今日も昨日から引続き、終日雑誌の編集に従事した。
3月27日(木) 晴
エペソ書1章15節、「
主イエスを信ずることゝ凡(すべて)の聖徒を愛することゝ」。信は原因であって、愛は結果である。しかし二者は同時に起こる者である。イエスを信じれば兄弟を愛せざるを得ない。
愛は信の最も確実な証拠である。「
惟(ただ)愛に由りて働く所の信仰のみ益あり」である(ガラテヤ書5章6節)。
3月28日(金) 曇
エペソ書1章16節、「
汝等の為に感謝し……汝等を懐(おも)ふ」。祈祷は全般的であるに止まらず、個人的であることを要する。名を指して、誰彼のために祈るべきである。そのようにして祈祷に熱心を加えることが出来る。
パウロは全世界を彼の祈祷の題目としたが、それと同時にまた、各地の信者めいめいについて祈る事を怠らなかった。彼の祈祷はさぞかし長くあったであろう。しかし尊い祈祷である。
3月29日(土) 晴
エペソ書1章17節、「
我等の主イエス・キリストの神」。特殊本当の神である。哲学者の神、政治家の神、教会者の神とは、名は同じく神であるが、質は全く異なる。
「
頌美(ほむ)べきかな神、即ち我等の主イエス・キリストの父、慈悲の父、凡(すべて)の安慰(なぐさめ)を賜ふの神」(コリント後書1章3節)というその神である。キリストの示現を待って初めて知ることの出来る神である。
神であると言って、誰でも知ることの出来る神ではない。儒教の天ではない。神道のカミではない。私たちの主イエス・キリストの神である。
◎ 今朝上海にある支那内地伝道会社会計から厚い感謝の意をこめた送金受取証書が届き、非常に嬉しかった。この喜びはもちろん自分一人で独占すべき者ではない。寄付者一同と共に共有すべき者である。
この書面に励まされて、今日は終日支那の地理を研究した。何故もっと早くこんな愉快な事業を始めなかったのであろうか。
(以下次回に続く)