全集第35巻P28〜
(日記No.272 1926年(大正15年・昭和元年) 66歳)
3月13日(土) 半晴
実に久し振りに、英国雑誌「第19世紀」を手にした。これはグラッドストン翁やハックスレーが議論を闘わした雑誌である。これを手にして、今昔の感に堪えない。
その2月号に、植物学の大家D・H・スコット氏が植物学の立場から、進化説を主張する論文を読んだ。教会のキリスト教に反対するのがこの雑誌元来の特徴であって、今もなおこれを継続するのを見る。
第20世紀の今日、生物各種特別造化説を痛撃するのを見て、今なお英国において、この説を頑固に維持する者がいることを知る。進化説を主張するに当たって、教会在来の信仰を多少なりとも嘲らなければならないとは、私にはとうてい分からない。
3月14日(日) 雨
朝夕共に盛会であった。朝はキリスト伝の最後として、「キリストの復活」について講じた。難しい問題である。しかし信仰の立場から見て、必要不可欠な箇所である。
キリストの復活を信じられないなら、キリスト教が与える最大の慰謝は得られない。午後はエレミヤ記第8章を講じた。忙しい一日であった。
3月15日(月) 半晴
昨日の働きで甚(いた)く咽喉を痛め、半日床に就いて休んだ。東京付近のある読者から次のようなハガキを貰って、嬉しかった。
三月号「不用人間」、金言なる哉(かな)、至言なる哉。実に斯(か)くも的確に現代の急所を突ける言、無之(これなく)候。毎度三十銭の研究誌にて御教育を受くる事数々、幾百円の書籍代を払ひて何等の価値なき時、僅少の代価の研究誌は、実に人類の至宝、自分の生命の糧に有之候。
そうかと思えば、合本20冊に対し、百円以上の代価を同時に払い込んで来る読者もいる。どう見ても研究誌は不思議な雑誌である。
3月16日(火) 晴
寒気再来。和英両文の原稿をだいぶ書いた。私に取り原稿を作るのは借金を返すのと同じである。毎月期日が来れば、原稿を催促される。その時これが無ければ、恥をかかせられる。それ故にいつ
原稿取りが来ても恐れないように、準備しておかなければならない。
今日のところ、和文の方は4カ月分位は準備してある。英文の方はまだ始まったばかりであるから、貯金も至って少ない。しかし、これにしても遠からずして二三ヶ月分の貯蓄をしておく必要がある。サーと言って狼狽するようでは駄目である。
常々弾薬を豊富に溜めておかなければならない。そのようにして何年も続いて滞りなく雑誌を発行することが出来るのである。
かつて故植村正久君に言ったことがある、「僕は未だかって原稿日に原稿を揃(そろ)えなかった事と、印刷屋の勘定日に勘定を怠った事はない」と。同君はすべての事において私を嫌われたようであるが、この事だけは私に感心されたように見受けた。
いずれにしろ過去30年間、この習慣を続けて来た。ペンが自分の手から落ちるのも、最早遠いことではあるまい。その時までこれを続けたいものである。
3月17日(水) 晴
イザヤ書22章15〜20節が今日の慰藉であった。今日の日本人の家庭の中に紊乱(びんらん)している者が多いのを知って驚いた。いつの間にこんなに乱れたのか、想像に苦しむ。
それにしても有島武郎は、悪い例を遺したものである。今や数多の有島事件が、社会の各方面において演じられつつある。この分で進んで行けば、日本の近い将来に、深く憂えるべきものがある。
3月18日(木) 晴
肩が凝ってペンが執れず、咽喉が痛んで話が出来ず、ただ呆然として一日を送った。ただ久し振りにゴーデーの書に目を触れ、信仰の光を混乱している心の中に投げ入れられ、蘇生の感があった。旧いとは言え、この先生に本当の信仰があった。
今の神学者たちが書いた物を読めば、ただ頭脳(あたま)が幻惑させられるだけである。ただ少し学者らしくなるばかりであって、その他に何も得るものがない。
人類の最善は第19世紀を以て言い尽くされたのではあるまいか。第20世紀に入って、世ははっきりと末世に入ったような感じがする。
3月19日(金) 曇
英文原稿を携えてインテリゼンサー社へ行った。一同の元気は旺盛である。世界改造の希望が漲(みなぎ)る。しかし元気や希望で事が成るのではない。神の大能によって成るのである。私たちは神の御計画を宣(の)べるに過ぎない。そして祈ってその成就を待つだけである。
◎ 昨夜巣鴨に大火があり、700余戸が焼けた。不安極まる世である。殊に花の都の東京はそうである。
3月20日(土) 雪
東京としては珍しい大雪である。柏木女子青年会の例会である。雪と諸学校の卒業準備で、出席者は24〜25名に過ぎなかった。私は女子学生たちと共にブライアントの「森の讃美歌」を読んだ。
◎ 近頃仕事が多いために、神を信じることが少ないので困る。少し油断すると、私も事業宗の米国人に成ってしまう。事業は実は、成っても成らなくても宜しいのである。
神が遣わして下さった、その独子(ひとりご)を信じること、その事が信者の唯一の事業でなければならない。
事業はこれを風に委ね、自分はキリストの十字架をさえ仰いでいれば良いのである。願う、今またこの旧い福音に還ることを。
3月21日(日) 曇
集会は変りなし。この日婦人9人(多くは女学生で、卒業して国に帰る者)と男子1人に、彼等の懇請に従ってバプテスマを施し、伊藤一隆、青木庄蔵、長尾半平等の長老諸氏に立ち会ってもらった。
エペソ書4章32節「
キリストに在りて神汝等を赦し給へる如く、汝等も互に赦すべし」という言葉を条件として簡単な式を施した。三位の名は用いなかった。使徒行伝2章38節、同19章5節等に依り、単に「
主イエス・キリストの聖名(みな)に由て」バプテスマした。
一同は強い感に打たれた。そのようなバプテスマは自分も受けたいと言う者が他にもあった。もちろん聖公会などには全然認められない式である。けれども私たちは、イエス様がこの席におられたことを疑い得なかった。
3月22日(月) 曇
東京高等女子師範学校の本年度の卒業生で、我が聖書研究会会員である者の送別懇話会を開いた。総数14人、例年以上の多数である。同校の本年度の本科卒業生は全部で91人であって、その内14人が研究会員であるとは注意すべき事実である。
また理科卒業生21人中、いずれかの教会に出席してキリスト教を求めなかった者は、わずかに6人であると聞く。しかも入学当時教会出席者はわずかに3人であったが、卒業の今日は6名を除く他は、ことごとく信者または求道者に成ったのであると言う。
文部省直轄の学校であって、その教師は一二名を除く他はことごとく不信者または不信者よりも遥かに悪い背教者であるにも関わらず、これほど多数の卒業生が信仰を懐いて母校を出るとは実に不思議である。文部省も、不信者または背教者たちも、キリストの福音の拡張を妨げることは出来ないと見える。
3月23日(火) 半晴
桜井ちか子女史の愛孫倉辻明毅君永眠の報に接し、本郷弥生町に遺族を訪問し同情を表した。倉辻君は有望な若い音楽家であって、大手町時代に幾度も私たちを助けてくれた。老女史は北海道時代からの信仰の友であって、彼女に対し深い同情に堪えなかった。
◎ 新聞紙は引続き
いやらしい記事で満ちている。疑獄、収監、自殺という類である。世は日に日に暗黒の密度を加えつつある。この時に際し、私たちの間には聖(きよ)い天国の歓びがある。一昨日バプテスマを受けた少女の一人からの感謝の書面の一節に言う、
イエス・キリストに合う為にバプテスマを受けた私は、3月21日、これが記憶すべき新生の日であり、また命日でございます。この世の生命欄から黒枠をつけられた日であります。心の中だけでこの世を去ったのではありません。
誰が見てもこの世の人ではなくなるのであります。この日は確かに死亡の日であります。ああしかし、私はこの死の峠をいつ越えたかを知りません。確かに先生の御手が私の頭にかかった瞬間に越えたのではないと思います。峠を越えた印(しるし)に受けたバプテスマだったと思います。……
昨日の朝の集会に罪の赦しの福音を承りまして、「キリストに在りて神汝らを赦し給へる如く、汝等互に赦すべし」、これが私たちに残された為すべき事であることを知りまして、感謝に堪えません云々。
他にもこれと同じような感謝に満ち溢れた書面が届いた。私の耳にはその時に歌った第137番の讃美歌が未だ響いている。
つみのこの身は いま死にて
きみのいさほに よみがへり
きよきしもべの かずにいる
そのみしるしの バプテスマ
帝国議会の議員や復興局の役人などは、この聖(きよ)い歓びは、少しも知らないのである。
(以下次回に続く)