全集第35巻P38〜
(日記No.274 1926年(大正15年・昭和元年) 66歳)
4月9日(金) 半晴
南風が強く、塵埃(じんあい)が揚がる。我が聖書研究会婦人会員中の最年長者吉川義子刀自(とじ
:中年以上の婦人を尊敬して呼ぶ語)永眠の報に接し、原宿に行き、彼女の遺骸に告別の敬意を表した。
彼女は美(うる)わしい信仰の持主であった。大手町以来の熱心な会員であって、彼女の老顔を聴衆の内に見るのは、私に取って大きな慰藉また奨励であった。彼女は備後福山の人であって、20年以上の聖公会所属の信者であった。
けれども数年前に東京に移られてからは、日曜日ごとに我が集会に出席されて、大きな満足を感じておられるように見受けた。私たちは、彼女を「吉川のお老母(ばー)さん」と呼んだ。
私はある日、彼女に問うて言った、「お老母さん、私が説いている事と貴女(あなた)の教会が説いている事と、その根本において違う所はありません。貴女は何故、貴女の教会に出席せずに、私の集会に来られますか」と。
すると彼女は笑みを浮かべて言った、「先生少し違います。教会が説いている事に生命がありません。貴君(あなた)は同じ事を説かれますが、その内に生命があります」と。
彼女は私より9歳年長者であって、今年75歳であったと記憶する。彼女は自分の故郷の実在を信じるように、天国の実在を信じていて、常に歓喜を以て、死について語られた。
そのような次第であるから、今彼女の遺骸に別れを告げたが、少しも死に別れたような感じは起らなかった。多分聖国(みくに)において私を迎えてくれる者の中に、際立って見える者は、我が愛する吉川のお老母さんであろう。まことに福(さいわい)な事である。
ただしかし、今日以後我が聴衆の中に彼女の姿を見ることが出来ず、我が講演のオーソドクシー
(正統性)を保証してくれる者がいなくなったことを悲しむ。
聖公会の監督やその他の教職は私を拒否するが、吉川老姉のような平信徒が、私の信仰に裏書きしてくれることを知って、どれほど我が意を強くしたことであろうか。世に老熟した信仰婦人ほど、貴い者はない。彼女の霊が永久に主の国に在って安くありますように。
4月10日(土) 曇
久し振りに読書気分になり、イザヤ書37章、エレミヤ記9章の研究が出来て楽しかった。私の幸福はすべて、私の小さな書斎において在る。
一歩我が家の門を出れば、限りない危険は、私の前に横たわる。教会は人を集めるために、私を看板として使おうとする。人は皆、私を利用しようとして、私を助けようとしない。
黙示録22章15節にいわく、「
犬及び魔術を為す者、凡(すべ)て譎言(いつわり)を好みて虚妄(いつわり)を行ふ者は城の外に在り」と。「城の外」を「家の外」と読んで、事実その通りである。
油断ならない世の中とは、日本の今日の状態である。殊に油断ならないのはキリスト教会である。
◎ 4月号が成った。例により感謝と祈祷とを以て発送した。
4月11日(日) 晴
桜花満開、麗しい春の聖日であった。市内は花見客と航空ページェントとに賑わった。飛行機の東京襲撃が演じられつつあった。内では朝は「悪魔の存在」について、午後はエレミヤ記第9章について語った。悪魔の知恵と力とに当たるのに、聖書の他に武器は無いと語った。
まことに神とその聖言(みことば)に頼って、「
患難(なやみ)を受くれども窮せず、詮方(せんかた)尽れども望を失はず、迫害(せめら)るれども棄られず、跌倒(たおさ)るれど亡びず」である(コリント後書4章8、9節)。
悪魔は偽りの兄弟となって私たちの間に入って来て、私たちの内を乱し、我が羊を奪い去るけれども、私は神に依って強いのである。こうして多くの厭な事があっても、希望と感謝とを以て日々を送ることが出来て大感謝である。
4月12日(月) 晴
昨日の講演に対し、次のような反響が来た。
前略、本日の研究会上の御話「悪魔の存在」、これほど私に恐怖を感じさせたものは、今までただの一度もありません。御話を聞いているうちに、目の前に悪魔の影が見え、憎らしさの余り拳(こぶし)を幾度か振り上げました。幸い、その悪魔に勝つ武器を最後に頂きましたので、勇気と喜びに満ちて帰りました。
悪魔! 彼は実に恐ろしい奴である。彼は立派な信者の形を取って聖徒の間に現れ、彼等をキリストならびに相互から離間し、その団合を破壊して喜ぶ。
今年に入ってから我が団体もまたそのようにして善い二三の羊を彼悪魔に奪い去られた。その事を目撃する我が心は、何と辛いことか。しかも羊は奪い去られるとは知らないのである。悪魔の驚くべき奸知(かんち)はそこに在る。
4月13日(火) 晴
肉の父の命日である。例年の通り謹んでこれを紀念した。
◎ 新たな興味を以て、創世記第1章を研究した。どのように見ても驚くべき記録である。神の言葉として見るより他に途がない。これに科学的価値は無いという近代人の申分は取るに足りない。これを天文学ならびに地質学と合せ読んで、深遠な意義がある。
この事に関するスイスの学者アガシ、ギョー、ゴーデー等の教導を感謝せざるを得ない。彼等の名を記述することさえ、深い歓喜の種である。
4月14日(水) 晴
北風で寒い。藤本医学博士が再婚し、その結婚式を司った。新夫人はいわゆる信者ではないけれども、貞淑な日本婦人なので、ここに私たちの信仰に従い、喜んでこの式を挙げた次第である。もちろん聖書あり、祈祷あり、
酒は無い結婚式であった。
今日までに私たちの同志が、いわゆる不信者を迎えて、その婦人たちが熱誠な信者と成った実例が
いくつもあったので、今回の事もまた、同一の結果に終ることと信じる。「善人は信者」と見る方が、「教会の人は信者」と見るよりも遥かに正確である。
4月15日(木) 晴
塚本と共に千葉県山武郡鳴浜村本須賀に行った。海保竹松君主唱の農村組合倉庫落成祝賀会に出席し、一場の演説をするためであった。来会者は400人以上いた。
私の演説に対しては、しばしば「ノー」の声が揚がってずいぶんと困らせられた。禁酒を実行すれば毎年何十万円という金が浮くと言えば「ノー」とやられる。自治独立は宗教に基礎を置く精神修養に待たなければならないと言えば「ノー」と来る。「ノー」と言うための「ノー」であって、弁明のしようがないのには困った。
後で聞けば、この日に聴衆が多かったのは、私の演説を聞くために来たのではなくて、私の後に演じられた浪花節を聞くためであったとの事で、村落における私の価値がどれほど少ないかを示されて、大いに覚る所があった。
帰途東金(とうがね)町に信仰の友の一団を訪問した。これは聖(きよ)い会合であって、失望は感謝に変じ、桜咲く春の夕暮の汽車に乗り、夜遅く柏木に帰った。
4月16日(金) 晴
過去十年あまり柏木団の一人として親交を続けて来た福田襄三君は、今回明治学院神学部を卒業したので、さらに神学研究を続けるために、今日渡米の途に就かれた。君は今は神学士(B・D)であり、教会公認の教師であるから、その点においては遥かに私たち以上である。
あるいは私たちの一人として独立伝道に従事されるであろうと期待したが、今回教会に入って、その公認教師と成られたことは、君の為を思えば、却て幸福な事であると信じる。
教会の立場から見た無教会団体は、甚だ不安な所なので、福田君のような教会関係の深い者が、私たちの仲間を去り、教会と行動を共にされる事は、無理からぬ事である。
4月17日(土) 晴
聖書に孤児を顧みよと教えているので、私も出来る限り孤児を顧みた積りである。けれども今日まで、いずれも実を結ばなかった事は、痛歎の至りである。
孤児は導くのが最も困難なものである。私にしても生みの父の代理をすることは出来ない。
ところが孤児からは、生みの父の愛を要求されるのである。そしてこれに応じる事が出来ないと、彼等は背き去るのである。こんな辛い役目はない。時にこれを思って人生に失望する。
4月18日(日) 曇
朝は満員の集会であった。パウロ伝研究の第一回として、使徒行伝第1章15節以下を、「人の選びと神の択(えら)び」と題して講じた。午後は八分の集会であって、エレミヤ記第9章の後半部を講じた。
諸学校の新学年の開始によって、我が研究会の会員が急に増した。殊に著しい現象は、上流社会の青年男女の中に、その親たちはキリスト教を賎しめ、または捨てたにもかかわらず、競って私の教を聴こうとして集まって来る者が多い事である。
こうして神は子供に信仰を起して、親たちの不信に報われる。不信の日本においても、勝利はやはりエホバの神に帰する。有難い事である。
4月19日(月) 晴
英文雑誌の原稿を作ろうとして苦心した。外国から強い反響があって愉快であった。私たちの国はこの世にはないけれども、広い世界は狭い日本よりも善い。
また在ドイツの内村医学士から興味多い書簡と、ドイツで作られた小品を送って来て、少なからず家庭の歓喜を促した。嫌な事は沢山あるが、良い事もまた少なくない。
(以下次回に続く)