全集第35巻P251〜
(日記No.326 1927年(昭和2年) 67歳)
11月5日(土) 雨
教会者が私たち無教会者を罵(ののし)る言葉だと言うのを聞くと、「彼等無教会者は何をしているか、何もしてないではないか」と。
実に恐縮の至りである。私たちは会堂を建てず、学校を起さず、社会事業に従事しない。故に何もしないと言われても、申訳が無い。
しかし、「何かをする事」が信者であるための必要条件であると思わない。イエスは教えて言われた、「
神の遣はしゝ者を信ずる事是れ即ち其(神が要求し給ふ)業(わざ)なり」と(ヨハネ伝6章29節)。
私たちは何をしなくても、神が遣わされた者、即ちキリストを信じている積りである。そして神はその信を私たちの事業として受けて下さることを固く信じて疑わない。そしてまた、私たちが彼を信じる以上は、私たちは全く無為無能ではない。
私などは、他人に劣らず随分毎日多忙である。30年間継続して聖書を国人に教えた。著書の厚さは、自分の身長ほどある。説教演説は二千回もしたであろう。その他同胞のために毎日使われる。
「何もしていない」とはどうしても思えない。ただ事業の種類が違うだけである。私は金を募ることが大嫌いであるから、金の要ることは為し得ない。殊に外国宣教師に金銭の補助を仰ぐことは、死んでも出来ない。
何十万円も価する会堂は有(も)たないが、小さな講堂は日曜日ごとに聴衆で溢れる。しかし私たち無教会者は、これを事業と言わない。私たちの事業は、事業ではなくて信仰である。故に「何もしていない」と言われても苦しくない。
11月6日(日) 晴
好晴の秋日和であった。外苑大講堂に差支えがあり、集会は柏木において、常例に従い、午前午後の二回に分けて開いた。午前は240人、午後は190人の来会者があった。
午前は「信仰の終始」と題し、コリント後書5章18節以下を、午後は「信仰と失敗」と題し、ヤコブ書1章12〜18節を講じた。1カ月ぶりに懐かしい柏木の聖書講堂に帰って来て、旧い会員の安否を問い、温かい楽しい会合であった。
11月7日(月) 半晴
休息の月曜日ではなくて、その反対に校正のそれであった。北海道行きの祟(たた)りが未だ抜けず、仕事が後へ後へと遅れて行く。仕事に追われるほど厭な事はない。今日などは、責任の鞭に打たれながら一日を終ったようなものである。
11月8日(火) 曇
多忙な日であった。ようやく両雑誌の校正を終った。例月より4日遅れている。その他この世の小事に引き回される。彼等は老伝道師を自分のために使うのに遠慮しない。彼に伝道させようとせず、自分の利益または便宜のために使おうとする。
気の毒な人たちである。何故に天下のため、人類のため、万物の造主である神の為を思わないのであるか。私の目に映じる日本国は、依然として小人国である。不愉快千万である。
11月9日(水) 晴
静かな休息の一日であった。訪問客は三人あって、その一人は花嫁に成ろうとする婦人であり、他の一人は花婿に成ろうとする男子であった。11月は結婚で賑わう。
私は初代キリスト教信者の迫害者ローマ皇帝ネロの伝記を読んだ。興味多い研究であった。彼を知る事は、新約聖書、殊にヨハネ黙示録を解する上において必要である。
◎ 前ドイツ皇帝ヴィルヘルムは言う、今から10年以内に第二の世界戦争は戦われるであろうと。英国自由党総理ロイド・ジョージは言う、「連合国が今日有する常備軍は、大戦前世界各国が有していた常備軍を合わせたものより多くて、総計1千万に達する」と。
米国海軍大臣ウィルバースは言う、「人が神に成るまでは、戦争は止まない」と。こうして大戦中に「この戦争は戦争を廃するための戦争である」とキリスト教界の主戦牧師たちが唱えた言葉は、全く裏切られたのである。
11月10日(木) 晴
一橋如水館において催された青木家(庄蔵君)の結婚披露宴に招かれて出席した。相変わらず花嫁花婿の前に着席させられ、演説しかも最後の演説をさせられた。
幸福な家庭を作る途は、至って簡単である。第一に主イエス・キリストを主人公として家に迎える事、第二に絶対的禁酒を実行する事であると述べた。
祝辞としては激烈に過ぎると思う人たちも大分あったらしい。しかし私としては今夜この事を高調せずにはいられなかった。来客は、紳士淑女200名以上あった。
11月11日(金) 晴
両雑誌の発送を終った。昨夜の卓上説教で疲れたと言っては申し訳ないが、それは事実であった。滅多にあんな社会へ出たことがなく、またそれに対して語ったことがないから、疲れるのも無理はない。
私の立場から見れば、交際社会ほど変なものはない。これに入って、魚が陸に上がったように感じる。交際家の立場から見れば、私のような者は更に変な者であろう。
11月12日(土) 晴
内村祐之の第31回の誕生日である。赤飯を炊き、遥かに彼のために祝しかつ祈った。
何十年ぶりで孝経を読んだ。依然として偉大な書である。殊に近代人は、これを精読熟読する必要がある。その内に深い真理がある。夫孝徳之本也
(それ孝は徳のもとなり)とは今日といえども動かすことの出来ない真理である。今から60年前に私の父の口から学んだ所である。
11月13日(日) 晴
山茶花が満開である。風は無く、雲も無く、絶好の秋日和であった。集会を外苑大講堂で催した。男四百、女三百、総計七百という集会であった(玄関番の報告による)。傍聴は37人、その内11人が教会員であった。私はイザヤ書1章2〜9節により、「罪の本源」と題して講じた。
罪の本源は、神に対する不孝であると言った。キリスト教に忠孝なしなどと言う者は、聖書を覗いた事のない者が言う事である。イザヤ書は不孝を責める言葉で始まる。そして神に対して孝でなければ、親に対して孝となることは出来ない。孝道の基礎はこれを聖書において見る。
11月14日(月) 晴
私に取っては休日である。他人に取っては休日明けの忙しい日である。故に彼等は遠慮なく訪問する。そして彼等が持って来る主な問題は、相変わらず金銭問題と結婚問題である。ただし左近義弼君がキリスト神性問題を持って訪問してくれたのは有難かった。
◎ 昨日一人の少女に、その母立会いの上でバプテスマを授けてやった。彼女の礼状は次の通りである。
先生、今日は私一人のためにわざわざバプテスマの式をお上げ下さいまして誠に有難うございました。「人の前にて我を否む者を我も亦天に在(いま)す我父の前にて否まん」という聖語、又「此(この)式は神様自(みず)からが司って下さるのであって、天の使達も一ぱい此所(ここ)にいて下さる」とおっしゃいました事等忘れられません。
神様に忠実なる婢(しもめ)として私の一生涯を捧げて参ります。……教会員になる為でない洗礼を受けさせて戴いた事がほんとうにうれしく御座います。
11月15日(火) 小雨
ある事からキリスト教界の実際を覗(うかが)う機会を与えられ、その意外な状(さま)を見て驚きかつ痛歎した。これでは聖霊が降らずに教会が衰微するのは無理でないと思った。
ラジオで筑前琵琶「太田道灌」を聞いた。
孤鞍(こあん)雨を衝(つ)いて茅茨(ぼうし)を叩く、少女ために贈る花一枝。少女言はず花語らず、英雄の心緒(しんしょ)乱れて糸の如し。 http://www2.odn.ne.jp/~hag38830/BBS/KANSI/kansi-meigen-meiku/08-doukan.htm
実に美しかった。近代人の都である東洋のバビロンに比べて、古い昔の江戸城が偲(しの)ばれた。
(以下次回に続く)