全集第35巻P304〜
(日記No.338 1928年(昭和3年) 68歳)
4月5日(木) 晴
農学士木村徳蔵氏の葬儀に列し、式辞を述べる役目を務めた。他に伊藤一隆、新渡戸稲造、森本厚吉等の旧札幌農学校同窓諸氏のそれぞれが役割に当ったので、全く
札幌葬の観があった。
このようにして同窓相共に旧友の死を弔うのは悲しくもあり、また美(うる)わしくもある。私たちは同一の母校から生まれて、順を追って神の召しに応じて去る。しかしいずれも多少に関わらず、有意義な生涯を終えて去るのは感謝に堪えない。
4月6日(金) 晴
主婦と共に銀座に行った。人間が多いのに驚く。その一人一人が問題を持っていると思えば不思議である。もし彼等が我が聖書研究会会員であって、一々問題を持込んで来たならば、何と恐ろしいだろうと思った。彼等は誰に何を教えられて、結局どうなるであろうかと思えば、心配せずにいられない。
余計な心配であると彼等は言うであろう。しかし市中に出てその大衆を見て、色々な事を思わせられる。銀座の真中親子三人一団となり、市内一円自動車に乗り、芝の友人を訪れ、夕食の馳走に与り、8時に柏木に帰った。珍しい経験であった。
4月7日(土) 半晴
庭の桜が咲いた。全日を故横井時雄君追悼演説草稿書きの為に費やした。亡き友人に対する善い奉仕であった。近頃のように弔い演説をすることはない。横井君の場合においては、奉仕よりもむしろ謝恩である。君を思って懐旧の感に堪えなかった。
4月8日(日) 晴
釈迦の誕生日に加えて、キリストの復活日である。百花咲き出し、麗しの春の聖日であった。朝は「復活祭の意義」について語った。
復活祭は過去の出来事の記念日ではない。今生きて万物をつかさどっておられるキリストの証明日であると言った。キリスト教は静止的(スタティック)ではなく、活動的(ダイナミック)である事の主意を述べた。午後は「イザヤの聖召」第3回を講じた。
聴衆に解ったかどうか知らないが、両回ともに大きな真理を述べた積りである。述べるのに1回わずか45分であるが、草稿を作るのは1日の仕事である。私に取っては随分高価な仕事である。その前の準備とその後の休息の時日とは別である。
ついでに記す、今日は釈迦第2494回の誕生日であると言う。
4月9日(月) 曇
疲労の月曜日であった。半日床に就いて休んだ。ブルーマンデーには万事がブルーに見えて困る。全体に勝利の生涯が、この日だけは敗北のように見える。1週に必ず1日このような日があるのは止むを得ない。
4月10日(火) 雨
雑誌333号を発送した。第300号祝いを行ってから、既に次の100号の3分の1を経過した。いつまで経っても飽きないのは福音である。健康さえ続けば、何時までも続けることが出来る。
◎ この日若き内村は札幌に向って出発した。彼を上野駅に見送り、帰途公園にフランス美術展覧会を見た。その中にただ一品、私の目を引く物があった。それはレオン・ボナー(
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%8A )作「ヨブ」の油絵であった。
その前に立って、自分の兄弟に会ったように思った。独りヘンデルの「メシア曲」の中の I Know that My Redeemer liveth (我は知る我が贖(あがない)主は生く)を口ずさんだ。
婦人の裸体画が多いフランス絵画の中に、骨と皮ばかりの我が友ヨブの裸体画を見て、フランスといえどもさすがはキリストの国であることを知って、非常に心強く感じた。
この絵をわざわざフランスから日本まで運んできただけで、この展覧会を開くための充分な価値があったと言えよう。
こうして神は近代人を喜ばせるための、この虚栄の市(いち)の小模型を東京に開かせて、その首座に「ヨブ」を置いて、この不信の民を御教えになる。この世の文明は全てこのようにして聖用されるのであろう。
4月11日(水) 晴
若き内村が去って、家は再び淋しくなった。しかし止むを得ない。彼に仕事をさせるためには、彼を活動の地に置く必要がある。
私たちは家の便宜のために住所を定めない。
天職がある所、これが我がホームである。私は柏木に残って、この日もまた終日ペンを執って働いた。ただ一二腹が立つ事が出来て困った。
4月12日(木) 晴
過去4年間我が家に奉公した女中石川春江が暇を取って実家に帰った。彼女は大地震で焼け出されて、着の身着のままで我が家に来た。そして帰る時には先ず一通りの衣類を具え、身体も非常に良く発育して去った。
そしてそれよりも更に善い事は、沢山に神の教を教え込まれて去った。讃美歌を歌うことは、家中で第一番であった。私たちは涙を以て彼女を送った。
彼女に代って来た者は、石川県能登国鳳至郡穴水町在の川下ミカと称する15歳の少女である。彼女もまた四五年我が家で働くであろう。そして肉体も霊魂も良く発達して、彼女の家に帰るであろう。
こうして女中の出替(でが)わりは、決して小事でない。我が家に取っては、有効な伝道事業である。何人の婦女がそのようにして我が家の伝道を受けたか、数え尽すことが出来ない。
なお、一人の女中は、孫娘を守って、今や札幌にいる。彼等はみな家の者である。私たちと彼等との間に、強い愛情が醸成する。喜ぶべき事である。
4月13日(金) 晴
故宣之君の第21回昇天日であった。音吉を伴い、雑司ヶ谷に彼の墓を訪れ、墓前で神の祝福を祈った。私が今日あるのは、全く彼のお陰である。言うまでもなく彼は私の最大恩人である。
もし私がこの世において何か善い事をしたならば、その功労の大部分は彼に帰すべきものである。私の齢(よわい)が加われば加わるほど、自分の父の偉さが解ってくる。私が神の国に入って、第一に会いたい人は彼である。
4月14日(土) 晴
午後2時から青山会館において、故横井時雄君の追悼演説会を、同君の同教会の人たち、即ち徳富猪一郎、小崎弘道、浮田和氏、網島佳吉の諸氏と共に催した。来会者は六七百人あり、意義ある集会であった。
ただし横井君を知る者は割合に少なく、そのために同君の為に弁じても感動する者が少なかったのは残念であった。時勢は確かに一変した。新時代が新信仰、新精神を要求するのは無理でない。
いたずらに過去の記憶を呼び起こす必要はない。死者に死者を葬らせて、私たちは永久に新しい、活けるキリストに従うべきである。これが、やがて死者の死を全うする途である。
旧い知人と共に、久し振りに同じ高壇に立って、彼等の老いた姿を見るにつけても、自分もまた老いたことを知って、それだけは悲しかった。
4月15日(日) 晴
昨日の出演で疲れ、今日は私の講演を休み、高壇はこれを塚本と畔上に委ね、私はわずかばかり感想を述べるに止めた。来会者は400人に少し足りないほどで、両回共に盛んであった。
労多くして功少なきは聖書研究以外の講演または演説である。しかしこれも為さざるを得ない。殊に昨日は少し故横井君の為に弁じ、君に対する負債の幾分かは償ったように感じ、その事を思って今日は疲労の内にも気持ちが好かった。
4月16日(月) 半晴
彼岸桜は葉桜と成り、八重桜は咲き出した。書斎からの眺めは特別である。四五日来、スコットランドの二大学者ロバートソン・スミスとG・A・スミス(二大スミス)の預言者研究により、またまた大いに教えられつつある。何と言ってもスコットランドは偉い。
多分世界最大の国であるだろう。たとえその研究はドイツほど深くないとして、その精神は遥かに潔(きよ)く、その信仰は遥かに高い。学ぶべきは確かにこの国と民とである。
両大スミスにより、2600年前の預言者が、今物言う者となった。こんな生きた注解者が、他に何処にいるであろうか。福(さいわい)だジョン・ノックスを産んだスコットランドよ。汝によって全人類は最後まで教えられ、また導かれるであろう。
(以下次回に続く)