全集第35巻P554〜
(日記No.396 1930年(昭和5年) 70歳)
3月1日(土) 晴
遂に3月は来た。病床の内に50日を過ごした。長いような短い日であった。昨夜は主治医と相談の上、古い催眠薬包水クロラール少量用いたところ、好結果を生じ、本日は近来まれな、苦痛の少ない日であった。
石原主治医は言った、「先生の身体にも春は臨みつつあると見受ける」と。まことに有難いことである。多分事実となって現れるのであろう。今月の末には、北海道から孫が見舞いに来るそうである。それまでに床を出て、彼等を迎えたい。その他、癒えたならば、天下の孫共のために尽したい。
3月2日(日) 曇
身体に体温が漲(みなぎ)るのを感じた。多分全治の徴候であろう。しかし後になって大きな疲労を覚えた。一日半睡眠的状態においてあった。食事は三度とも摂れた。
◎ 床の内に在って、聖会の讃美歌を聴き、独り心に和した。来会者は162名の由、純福音的な良い聖会であったと聞いて喜んだ。願う、今一度生ける者の里において、同志と共に、活ける神を讃美することを。
願う、この病を機会として、我が聖会より、「世界的大偉人内村大先生」を恋い慕う者は悉(ことごと)く脱会し、
人に賎しめられるナザレのイエスを慕うものだけが残るに至ることを。
3月3日(月) 雨
今度の疾病により、身体の改造を期す。ゴーデー先生同様に、80歳以上まで、生きて聖書の研究を続けたいものである。あるいは90歳でも可である。死ぬことは何時でも出来る。急ぐには及ばない。
◎ 今度の病気につき、日本国中の同志が、私の為に祈ってくれた、その偉大な力を日に日に感じる。全く祈りの結果により、今日まで存在しているのである。
3月4日(火) 雨
万事故障なく進行しつつある。神の御仕事は、自分が働いても働かなくても、何の変りもなく進行しつつある。私が働かなければ、神の聖業が中止するというほど、大きな間違いはない。
私が働かない方が、却って良いのかも知れない。ただ床の内に在って、静かに神の御事業を拝見する。これまた信仰の大快楽、大満足でなければならない。
3月5日(水) 雨
今や人は誰も愛を要求する。そして全ての人は、愛の人でない人はいない。少なくとも全ての若い人たちは、愛の人である。即ち恋愛の人である。我が日本国において、今日愛の人を求めることは、決して難しくないのである。
難しいのは、義の人を求める事である。義人は滅多にいない。義人は堅い強い人である。若い人たちの中には、滅多に見当たらない。そして私たちは神によって、義人を作ろうと欲しつつあるのである。愛の人は捨てるほどいる。欲しい人は義人である。
3月6日(木) 霙
寒気に悩まされる。しかし庭の桜の蕾(つぼみ)は膨(ふく)らみつつある。希望は目前に迫る。先ず当分死なずに済むであろう。しかし生きるにしても、この罪悪の世に生きるのであって、また不愉快なことを沢山に見せられるのである。
福音を説くのは、私には快楽この上なしであるけれども、これを斥け、誤解し、乱用する人々の行為を見る苦しみも、これまた耐え難いものである。
◎ 今度キリスト教界の名士某君が、民政党公認代議士として選出されたと聞き、同氏のために成功を祝すると共に、もし内村が同様のことをしたならば、世間ならびにキリスト教界は、何と評するかと思う時、この世が如何につまらない所であるかを感じさせられる。
生きる者の里に、活きる神の福音を何時までも説きたいけれども、その生きる者の里というのは、実につまらない所であることを知って、もし人に神がその子に約束された来世が無いとするならば、人生ほど無意義なものはないと感じさせられる。病床に在り、友人に看護してもらいながら、この感想を筆記してもらう。
3月7日(金) 雪
引続き天候が悪くて困難である。
◎ ある人は言う、今度私が、こんな難しい病気に罹ったのは、ある人に恨まれているからである。その人の怨みを解かなければ、癒えないであろうと。あるいはそういう場合がないでもなかろう。
自分が他人を怨んだ場合には、その人が私に対して犯した罪を全て赦してやったから、そのように神様は私が犯した罪を赦して下さっただろうと思う。
しかしながら、私を怨む多くの人々の場合を考えると、彼等は充分な理由なしに、私に見放されたのではない。十分な警告を与え、忍耐を以て彼等を導こうとしたのに対し、彼等は傲慢に私に対した。そこで止むを得ず、彼等との関係を断たざるを得なくなったので、遂にその結果が私の幸福となり、彼等の不幸となったのであると思う。
彼等は私を怨む前に、深く自己に顧みる必要がある。ただし、私といえども罪の人であって、完全の人でないのはもちろんである。もし理由なしに怨まれることがあったならば、神に在って赦してもらいたい。ただしその事が今日の病気に関係があるとは思わない。
神はそんな事で、人を罰したり、または賞したりされない。彼はその大いなる愛の御目的を達するために、あるいは鞭打ち、あるいは福(さいわい)を与えられる。
そのような場合に特別に罪を悔いる必要は無いと信じる。ただ病が癒えた上は、前よりも
より善い生涯を送って、神を御喜ばせするべきである。
(以下次回に続く)